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チベットの道とプラン(普蘭)

科加~普蘭間の道
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チャン・ラを登っているときにすれ違ったカトマンズからの巡礼の話では、国境を越えたシアルからタクシー(!)があって、それを使えばカイラスまで1日だ、とのことだった。半信半疑で(というか95%は疑って)シアル村に行ったのだが、やはりタクシーなんぞはいなかった。それでも車道があり、車が時々は通っているらしく轍も残っていたので、すこし安心した。何しろネパール側は車はおろか馬さえ危険と思われるような、細い山道しかなかったのだ。

シアルから次のコジャ(科加)までは数時間。ここで1泊(ゴンパで)。
そこから普蘭まではおよそ30kmと聞いており、車に乗りたかったが、残念ながらそのようなものは影も形もなく、村の雰囲気もよくなかったので歩くことにした。工事現場の人たちが、「3時間だ」と言ったのも歩くきっかけとなった。

石と砂礫混じりのだだっ広い大地に、あるところははっきりと、別のあるところは微かに、車の通った痕がある。これを辿りながら、ただただ歩いていった。
左手はるかにカルナリ川が流れている。時々、水の音が聞こえるほどに近づいたりもしたが、大抵はキラキラ光っているのでそこが流れだとわかる程度に離れていた。最悪、そこまで行けば水が得られると思いつつも、場所によってはキロ単位で離れてしまうので、やはり水は持って歩かなければ不安だった。

テント、シュラフ、最低限の着替え、薬品や小物、コンロ、コッヘル(簡易鍋)、灯油のボトル、わずかの食料、カメラ、フィルム。この装備だけでザックは満杯であり、重量はほぼ20㎏。これに常時水を2リットルほど持っていたので、しめて22㎏。
1日に食べられるのは、インスタントラーメン1.5袋とわずかの米または小麦粉またはダルマート(ネパールの簡易食?)。毎食、インスタントラーメンの半分を煮て、そこに他のもの(大抵はすいとん状にした小麦粉)を加えて食べていた。たまに米を炊くこともあったが、それはごく稀なことだったと記憶している。
ネパールで買った灯油は水が混ざっていたのか不完全燃焼するばかりでコンロは使い物にならない日も多く、そんな時はそのへんに落ちている枝を拾い集めては燃やし、どうにかお湯を沸かして食いつないだ。

プランまでは実質10時間、休憩時間も含めると12時間以上かかった。荷物が重すぎたせいだろう。1時間に3キロ歩いたかどうか、というところだ、これでは。
結局、この日は1台の車も見かけなかった。向こうからも来なかったし、後ろからも抜かれなかった。それでも時折、遠くを走る車の音と巻き上げる砂煙を見かけたことがあった。道がどうなっているかわからず、あの車はここに向かってくるのではないかと思い、大地の凸凹に隠れてやり過ごそうとするのだが、それらの車は道のないところを走っていたのか、あるいは別の道があったのか、一度も私に近づいてくることはなかった。
体力も気力も尽きかけようとしたころに、遠くにプランの町であろうパラボラアンテナの反射光を見たときの感激は、まるで昨日のことのようだ。後にも先にも、あれほどの荷物を背負ったことはないし、あれだけ長時間にわたって歩き続けたことはない。

プランの町はずれに入ったところの民家で、おばあさんに手招きされ、バター茶をご馳走になった。このとき、チベット語を話すおばあさんと、チベット語を話さない私の間に立って通訳をしてくれた少年と、まさか次の年にまったく別の国の町で再会することになろうとは。この話はまた別の機会があれば。

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プランの町。
これは北のはずれだと思う。左手の斜面の上には解放軍の駐屯地があった。川の向こうに見えている比較的新しそうな建物は、税関などの政府の建物だった。国境警備隊の事務所や公安局やプラン賓館や銀行は、道なりにぐーっと左にカーブしていった先にあり、その向こうにプランの町、人々が暮らすエリアが広がっていた。
私が泊めてもらっていた解放軍の招待所は、おそらく、画面下に見えている道と川に挟まれたエリアにある建物のうちのどれかだと思われる。ちょっともう記憶が定かではないのだが。

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上の写真と同じような場所から撮っていると思うのだが、町に近づいているのか遠ざかっているのか、立っている場所も高くなっているのか低くなったのか、よくわからない。記憶が曖昧でまことに申し訳ない。
このあたりがヒッチ・ポイントで、毎朝暗いうちに起き出してここに行き、トラックが来ないか待っていた。ということは、解放軍の招待所からそう遠い場所ではないと思う。

プランでは6日間禁足となり、パスポートを公安に預けて(没収されたとも言うが)滞在していた。
何しろ私は公安の面々を相手に滔々といい加減な中国語をまくしたて、自分がここに来たのは正当な行為であり入国を許可されて然るべきである、という態度を貫いたので、彼らとしても単純に追い返すわけにもいかなかっただろうし、何より面白かったのではないか、と思う。
6日目に簡易裁判の判決が下ったとのことで、私は罰金刑を受けて入国を許可された。実際のところがどうだったのかは、私にはわからない。当時、こんな小さな案件で北京に連絡して裁判をして、などということをやっていたはずがない、とも思うが。いずれにしても私のパスポートには、かろうじて中国の入国スタンプが押され、ごくわずかだけ格好がついた。ビザはもっと北にある阿里という町で取れ、という話だった。
それからトラックが出るまでさらに3日待ち、プランに入って10日目にようやく巡礼トラックの荷台に混ぜてもらえることになり、町を離れることができた。
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by himalaya3 | 2007-09-24 16:38 | 西北ネパール~カイラス1992
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