カテゴリ:四川省布施1991( 4 )

橋の上  四川省布施・1991年(4)

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町はずれの路地で、地面にぺったりと座り込んで布を織る人を見つけた。しかもここは道路だ。車など決して通るものかという確たる自信に裏打ちされた行為なのだろう。
織っているのは羊毛の幅の狭い布。おそらくこれを接いでスカートにしたりマントにしたりするのだろうと思われる。この写真を撮ったときは、まさか将来自分が布屋になるなど思いも寄らず、詳しいことは聞かなかったのが残念だ。
周囲にいるのは、多分このおばちゃんの子どもたち、または近所の子どもたち。この時期、この地域の人民帽着用率は非常に高かった、というのが見てとれるかと。
左の人のマントのかっこよさはどうだ! 袖なしで前もボタンなどはない、完全に肩に引っ掛けるだけのマント。見てわかるとおり、非常にカッチリとしている。密に織った羊毛の布をおそらく水に漬けて縮め、もしかすると重ね、そしてびっしりと刺し子をしている。装飾としての刺し子ではなく、単純に強度を高めるための刺し子なので、布と同じ藍の糸を使っている。

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ノートに名前と住所を書いてもらっているところ。この人のことはよく覚えている。いま手元に当時の日記やらは持っていないのだが、彼女の名前だけは覚えている。シャヘイシェンマさん、と言った。年齢は私と同じだったから、えーと、26歳だったか。
どういう話の展開だったかまったく記憶していないのだが、この後シャヘイシェンマさんと町を歩き、一緒に「砂鍋米線」を食べることになる。当時1杯が1.5元くらいだろうか、いや、1元か、このへんは調べてからまた訂正します。
それから彼女と大交差点に向かって歩き、彼女が道端の物売りから果物(りんごだったか)を買って、ひとつ私にもくれた。いや、7月だ、りんごではない、梨か?

それから大交差点に行くと、そこは祭り見物に来た彝族でごった返しており、パレードまでまだ2時間はあったと思うのだが、早くも大勢の公安が警棒を振り回して彝族の人々を整列させようとしていた。整列! ともかく、道の両側にずらっと並べ、前の人を座らせようとしていたのだ。
あまりにも人が多く、また言葉もそれほど通じなかったのではないか、公安のメガホンや、交差点に立っている巨大な拡声器からワンワン指示が飛ぶ割には、いっこうに状況は改善されない。彝族はどんどんこの交差点めがけて到着するらしく、前にいる人は押されて少しずつ前に出てしまう。それを公安が警棒を振り回して殴りつける。前に居るのはほとんどが女性か子どもだ。警棒を振りかざした公安が近づくだけで、彼らは立ち上がって逃げようとする。あちこちで悲鳴が上がり、さらに場は混乱する。公安はそれを抑えようと逃げ回る子どもと女性をまたひっ捕まえて殴る。

私はその時もカメラを持っていた。遠目にもよく目立つ、一眼レフだった。当時そんなものを持っているのは新聞記者か外国人だけだったから、私はその騒ぎに近づいて、公安にレンズを向けてやろうと思った。そうすれば彼らもひるむと思ったのだ。そして公安は私に手を出すことはないだろうという妙な自信も持っていた。
人ごみをかきわけて数歩前に出た時、シャヘイシェンマさんが驚くような力で私の腕を引き、私はまた人ごみの中に戻った。私は多分、もうカメラを手に持っていたのだと思う。彼女は私が何をしようとしているかを、何となくではあるが理解したのではないか。
私と彼女の間には、通じる言葉があったわけではない。彼女は自分の名前は漢字で書くことができたが、住所までは書けなかったし、彼女の話す言葉はあまりにも訛りが強すぎて、そして私の話す言葉もあまりにも訛りが強すぎて、お互いにまったく理解できなかった。だから彼女は何も言わずに、ただ私の腕をつかんだまま、私の目を見つめた。言葉を発せられない母親がわが子に何事かを諭そうとしているかのような必死さで、彼女は私を見つめ続けた。私は目を逸らし、カメラからも手を離し、「もうしない」と伝えるのが精一杯だった。

その場で、その公安1人が怯んで殴打する手を止めたからといって、問題は何一つ解決しない。状況は何一つとして変わらない。
私は用がすめばこの町を出て行く。自分が面子を傷つけた公安とは、その後一生会うこともない。しかし、ここに住んでいる彼らは違う。彼らはこの町を出て行くことができない。この状況から逃れることができない。この中で、この状況の下で、つまりは漢民族の支配の下で、生きていくしかない。それが彼らなのだった。それがシャヘイシェンマさんの人生なのだった。
彼女の諦観が、哀しかった。いや、誤解のないように書いておくと、彼女は決して卑屈になっていたのではない。むしろ毅然としてこの状況を受け入れ、そこで生きようとしていたのだと思う。通りすがりの外国人の一時の思いつきで、状況をさらに悪化させたくもなかったのかもしれない。あるいは、そのような一時のヒューマニズムなど要らない、という強い思い。
そして私は自分の思いの至らなさを恥じた。なぜと言って、彼女と私は同い年だったのだ。

後で招待所の人にシャヘイシェンマさんの書いた彝文字の住所を漢字にしてもらい、日本から写真を送ったが、おそらく届きはしなかっただろう。

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順番を前後させるが、布施から西昌へ戻る途中の山道とバス。道路が壊れて4時間ほど立ち往生、乗客もあちこちぶらぶら、の状況。


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前の写真から時間を逆戻りして、たいまつパレードの翌朝、布施の町の端っこ。私は小さな橋の上に立っているのだが、ここが町の一応の境界線のような感じだった。
いろいろなことが頭の中で渦を巻き、ほとんど眠れないままこの日の朝を迎えていた。この日は闘鶏や闘牛など、祭りの本番が行われる日だ。けれど私は、この朝、町を出るバスの切符を買いに行った。とても祭りを見物する気分にはなれなかったのだ。この日の祭りを見れば、私の感想もまた違ったものになったかもしれない、と今は思うし、せっかく行ったのにもったいなかったという思いもなくはない。けれど、その時の自分はそれを潔しとしなかった、それが全てで、それでいい。
バスは西昌から到着した車両が折り返すため、昼過ぎの発車だと聞かされた。午前中は時間があるので、ぶらぶらと人の少ないほうに歩いていくと、ここに出た。
どこにピントがきているのかもわからないような写真だが、私にとってはかなり思い入れのある写真で、布施編の最後に使いたかった。

何ということもなく橋に立ち、何ということもなく道の行く先を眺め、向こうから来る彝族を眺め、こちらから去る人を眺めていた。そしてこの写真を撮り、それからまたしばらくこの橋にいた。なぜだろうか、途中からひどく去りがたい気持ちが沸き起こり、踵を返すことができなくなった。
この時の私は、彝族の現状について深く憂いていたわけでもなく、ただ寝不足の真っ白な頭でそこに立っていたと思うのだが、不意にわけもなく泣きたくなった。旅先では決して泣いたりしない自分だが、この時はちょっと泣いた、かもしれない。
その時の気持ちを強いて、そしてまったく伝わるわけもないと理解しつつ言うならば、「この向こうなのだ」という思いだった。「この向こうに」、あるいは「この向こうが」。自分は永久に到達しない、「この向こう」。でも自分はそこを知っていて、ものすごく懐かしい。帰りたい。しかし帰れない……。
私はずいぶん旅をしてきたし、多くの町や村、そして自然の中に自分を立たせてきたけれど、このときと同じ気持ちになったことはその後二度とない。もちろんその前にもない。布施は私にとって忘れがたい町になった。だがきっと、自分は二度とこの町には行かないような気がする。なぜと問われたら困るけれど、そんな気がする。


最後いささか変な文章になってしまってすみません。これにて布施編はオワリです。
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by himalaya3 | 2008-01-19 14:33 | 四川省布施1991

たいまつ祭り初日・光当たらぬ側 四川省布施1991(3)

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前回の記事では意識的に「美しい」「着飾った」人々ばかりを載せた。今回はその逆の側、つまりは光の当たらない側にいた人々を載せてみたい。
この頃のここ涼山彝族自治州、布施周辺は「純粋彝区」と呼ばれていたらしい。たいまつ祭りのパンフレットにそう記されていた。町にはもちろん漢族も入り込んでいる。それは中国の少数民族エリアどこに行ってもそうであるように。
しかし、町の中を歩くにつれ、彝族の人々がはっきりと二つの階層に分かれていることを知った。片方は豪奢な衣装に身を包み、美しい白い布の日傘を差し、通りの真ん中を(これは穿った見方かもしれないが)闊歩している。もう片方は地味な紺一色の衣装を着て、通りの端に固まっている。
この階層が何によるものなのか、私には知る由もない。
かつて彝族は極めてはっきりとした奴隷制度を持っていたと伝え聞く。しかしそれは、たとえばチベットにしたところで一種の農奴制があり、それが中国がチベットを「解放」する大義名分の一つになったわけで、彝族の奴隷制度にしても、とりわけ「とてつもなくひどいものだった」と言えるものではなかったのかもしれない。現に奴隷とはいってもその中で身分の高い者は、何らかの手段によって自らを「解放」することもできたと聞く。
それはともかくとして、現在のこの違いは、かつてのそういった身分による住み分けなのか。
あるいは「解放」後の身分による住み分けなのか。
かつての「よい身分」は推測ではあるが「解放」時と文革の時に徹底的に弾圧されたはずだから、今またその旧時代の身分によってここまでの格差があると考えるのは、いささか不自然なような気もする。
ともかく、このあまりに歴然とした違いは、私に相当な違和感、あるいは嫌悪感に近いものを与えたことだけは間違いない。

b0033537_16341782.jpg暗い写真でよく見えなくて申し訳ない。精一杯に着飾った娘さんたち。


b0033537_17484493.jpgここはバス駅の中だったと思う。バス駅とはいえ、西昌との間を結ぶバスが1日に2往復しているだけだったかと。ほかの小さな町へ行くバスもあったのだろうか。
足踏みのミシンで服を縫っている。たぶん民族衣装だと思う。


b0033537_17475744.jpg近づいてくるパレードを一心不乱に見ている人々。右端の後方に写っている白いワイシャツの男性は、漢族だと思う。


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もうパレードは始まっているのだが、「俺たちにゃ関係ねえよ」とばかりにトランプ博打に興じる子どもたち。1人だけちょっといい服を着ている子も混じっている。いっちょまえに、お金を賭けていた。もちろん角の単位、ときには分玉を弾きあっていた。(角は元の1/10、分は元の1/100)


b0033537_1753477.jpg夕暮れが近づき、いよいよたいまつのご登場。ススキを束ねたようなものに火をつけて、通りをちょっと歩く。どんどん燃えてきてしまうので、ちょっと歩いたところでもう地面に投げ、大きな火にする。


b0033537_17544211.jpgすっかり日も落ちて暗い中、新たな草や木がくべられて、火が太っていく。メインストリートの何箇所かでこのように火が焚かれ、この後この火を囲んで踊りが始まった。
四川日報という腕章をつけたカメラマンが1人、写真を撮っていた。ほかに外から来た見物人は私のほかになく、音を立てて燃え上がる炎と、その周囲で踊る民族衣装の人々は、たしかに美しかった。私も首からカメラを下げていたのでその輪の中に入り込み、何枚か写真を撮らせてもらった。そうしていると「一緒に踊ろう」と言われ、しばらくその輪に混じってフォークダンスのような踊りを真似したりもした。着飾った子どもはかわいらしかったし、女性たちは文句なく美しかった。男性も腰から垂らした帯が夜目にも鮮やかで、彝族は美しい民族だなと思った。

しかし、一歩その踊りの輪から出たとき、私はそこに異様な気配を感じて思わず立ちすくんだ。すぐにその理由に気がついた。通りの両端には、踊りの輪に入ることなど考えもしないといった様子の圧倒的多数の彝族たちが、日中よりはるかに数をふくらめて、そこに存在しているのであった。その一群はある者は座り込み、ある者は立ったまま、ただ踊りの輪と立ち上がる炎とを凝視していた。
どの輪も、どの輪も、同じだった。炎を取り巻いて踊っているのは、パレードに参加していた着飾った人々であり、その周囲の光も当たらない、炎のかすかな明かりすら届かない場所には、やはり圧倒的に多くの彝族たちが、うずくまり、目ばかり光らせているのだった。

一体これは、誰のための祭りなのだろうか。
そして、彝族とは、誰なのだろうか。
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by himalaya3 | 2008-01-15 18:19 | 四川省布施1991

たいまつ祭り初日・光当たる側 四川省布施1991(2)

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正装した婦人 1991四川省布施

この日の夕方にたいまつパレードが行われ、三日間に及ぶ祭りが始まるというその日。町を歩くあまりにも美しい正装のご婦人がいたので、頼んで撮らせてもらった。

前回の記事の補足になるが、彝族はチベット族や納西族、そして羌族と先祖を同じくするチベット系の民族。自分たちの文字も持っており、中国では7番目に人口の多い民族とされている。
涼山イ族自治州は四川省の南部をすっぽり覆う大きな州で、北端を大渡河、南端を金沙江が流れる。この州の北部にある大涼山が、彝族の大拠点とされた。
また、1990年に西昌市と涼山彝族自治州が合併して新しい涼山彝族自治州が発足したらしいので、私が訪れた91年は合併後初、もしくは二度目のたいまつ祭りだったのだろう。


b0033537_17521064.jpgこちらも正装したご婦人たち。町のメインストリートを颯爽と歩む。


b0033537_1752284.jpg新聞紙を拾おうとしている少女は、紺地の鮮やかな刺繍のジャケット。黒地のジャケットも多く見かけたが、何による違いなのかはわからなかった。未婚・既婚などのはっきりしたルールがあるのか、それとも単に好きな色なのか。
スカートの色も違う。



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パレードが始まった。共産党の赤い旗と各種スローガンの横断幕を先頭に(それは写していない)。
着飾った男女が続々と通りを行進していく。最も着飾った人々の行進が終わった後は、州内の地名の入ったプラカードを掲げた、そこそこ着飾った各地区代表たちが行進した。
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by himalaya3 | 2008-01-08 18:06 | 四川省布施1991

四川省布施・1991年(1)

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中国四川省涼山彝族自治州布施鎮。
おそらくこれで正しいかと思うのだが、布施県だったかもしれない。検索で出てこなかったので、不確かなままで相すみません。

1991年の夏、四川省の成都から最初空路で、次に陸路で、それぞれラサ行きを狙ったものの果たせず、がっかりしていた時に、交通飯店の掲示板に「彝族の火祭りを見に行きませんか!」というツアー募集の紙が貼り出されているのに気がついた。
それまで、この民族の名を聞いたことはあったが、実際にはどういう人々で、どこに住んでいるのかなど、ほとんど何も知らなかった。迷わずに、この祭りに行ってみようと思った。ただし、自力で。
その紙にあった地名は、西昌と布施の2つ。地図を一生懸命に見て、まず西昌を見つけ、次に布施を見つけた。自力で行けそうだな、と思った。
成都から夜行普通列車で西昌へ。明け方着いてそのままバス駅に走り、切符の売出しを待ったが、この日は結局切符が買えなかった。許可証が要るのである。そのまま公安局へ向かい、事情を説明して許可証を発給してもらった。

西昌を早朝に出発したバスは、最初こそ静かに進んでいたが、2時間もすると車内は着飾った彝族の人々で一杯になり、歌が始まった。私にはさっぱり聞き取れない歌。男も女も大合唱だ。昭覚を過ぎるとバスはぎゅうぎゅう詰めとなったが、歌が絶えることはなかった。
布施が近づくと、未舗装の一本道を歩く人々が目に付くようになる。マントを羽織る特徴的な民族衣装も美しく、何より彼らは、決してバスを振り向いたりしないことに驚かされた。まっすぐ前を見据え、自分を追い抜いていくバスになど一顧だに与えず、黙々と歩いていく。これは何かとてつもない民族なんじゃないか、と思えた。

布施に到着すると、町に一軒の招待所に向かい、チェックイン。事務室には町の偉いさんと思われるおじさんが数人いて、全員でパスポートと許可証を念入りに見学した上で、「記録に残る限り、当地を訪れた外国人としてはあなたが2人目です」と言った。冗談だと思うが、真偽は不明である。「これからツアーの人々が来るのではありませんか?」と尋ねてみたが、「いいえ、誰も来ませんよ」との答え。ツアーは成立しなかったらしい。

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町の中心である大交差点。当時ほとんど車は走っていなかった。トラクターがたまに通るくらい。あとは馬車やロバ車。だから人があふれていてもちっとも困らない。困らないのだが、人が密集すると見ると、公安が飛んできて「解散!」と警棒を振り回すのである。

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こんなふうに馬車がカポカポと通り過ぎる。のどかな町だった。みんな明日からの祭りに備えて、前日に現地入りしているのだろう、と見た。

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女の子たちの民族衣装がかわいい。藍染の色も鮮やかだった。もう少し大きくなると、ほかの写真にあるような、白や黒のマントを羽織ることになるのだろう。この、白と黒に何か意味があるのか、たとえばかつて奴隷制があった彝族だから、身分の違いが表されているのか、それとも、黒彝族、白彝族といった違いがあったのだったか。よく記憶していなくて申し訳ありません。

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映画館の前に座り込む人々。
とてもたくさんのプリーツを折り畳んだロングのスカートと、青い上着はセットなのだろうか。この上におそらくマントを羽織るのだろう。
上映予定の映画はみな雄雄しいタイトル。天安門事件からちょうど2年が経過しているが、まだピリピリした時代だった。移動許可証を発給してもらわなければ、中国の人ですら自由に移動できなかったのではなかったかと思う。たしかバス駅ではみな、A4サイズの紙を大事そうに持って並んでいたと記憶している。
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by himalaya3 | 2007-12-30 20:12 | 四川省布施1991