カテゴリ:中国シルクロード・1988( 6 )

トルファン 1988年6月

蘭州から西へ向かう列車は、まことに緩慢に走っていたと思う。
同じコンパートメントに酒泉の大学教授親子が乗っていた。この時期の中国では、いついかなる場合でも、人を見たらタバコを勧めるのが礼儀であった。同乗した彼らもまた、執拗に私に勧めるのだが、「本当に吸わないのだ」ということを理解した後は、決してコンパートメント内では喫煙しなかった。当時もそういう人はいた、のである。そう、いくらでも。
この人たちが「帰りには酒泉に寄るでしょう?」と聞くので、「ええ、多分」と答えると、「葡萄美酒夜光杯」に始まる漢詩をとうとうと詠い、尚且つ私の手帳に書いてくれた。その字のまた美しいこと! 今も大事に取ってある。

因みにこの漢詩は、王翰という人のもので、全文は以下に。

葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑
古来征戦幾人帰

恥ずかしながら、一行目しか読み方がわからない。帰路、私は敦煌から酒泉に寄り、夜光杯をお土産に買って帰った。多分今も、両親のところにあると思う。

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トルファンのバザール。それほど人であふれているわけでもなく、どちらかと言うと閑散としていた印象が強いのだが、どうだろう。
ここで売っていたのは、ドライフルーツと固いパンと、あと何だろう。隅のほうでウイグル帽子などは売っていたか。シシカバブも焼いていた。麺の屋台も幾つかは出ていた。でもやっぱり、賑やかな記憶はないのだ。

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トルファンでいつも移動の時に乗っていたロバ車。チェックのシャツを着ているのは、同じホテルに泊まっていた日本の人。一緒にバザールに来て、帰るところかな。人民帽の男性が写っているが、これはロバ車の兄貴。弟はちゃっかり後ろに座っているようだ。いつも闇チェンジマネーを持ちかけてくるのだが、まぁまぁ便利でよく使った。

ある時、人民元の残りが少なくなったので、この兄貴と闇チェンをした。レートはもう覚えていないが、この頃のトルファンあたりだと、130には届かなかったのではないだろうか。成都だと150に近い数字だったと記憶している。今資料が手元にない場所で書いているので、定かではないが。
その日の夕方、ぶどう棚の下でだらだらしていると、ロバ車軍団の別の子どもたちがやってきて、「今日、姉さんと換えたワイホイね、彼は10元も儲けたよ」と言う。そりゃ、儲けがなければ始まらないし、お互い必要としてるんだからね、なんてことを彼らに言っていると、当の本人が来た。どうも遠くで、私と彼らのやり取りを見ていたらしい。ちょっと気まずそうな顔をした彼は、ついと小売部に入っていくと、やがて缶のジュースを手に出てきて、私のテーブルにそれをゴトッと置くと、一言「やるよ」と言った。そしてそのまま、振り返りもせずに通りに出て行ってしまった。
そんなことを、よく覚えている。
当時、缶入りの飲み物はずいぶん高かったことと共に。

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トルファンからカシュガルへの移動時の、何となく飯屋っぽい場所。こんな感じだった。どこも似たようなもので、これ以上でも以下でもなかったような気がする。
よく見ると、男たちが座っているベンチの足が見事に斜めに傾いていて、なぜひっくり返らないのか不思議だ。柱によりかからせてあるのだろうか。
別のバスでほぼ一緒に動いていたオーストラリアからの留学生は、「Never eat street food」と言っていた(私の英語であるからして、間違っていると思う)。言われたこちらは既にストリートフードを食べてしまった後で、その日だったか次の日だったか忘れたが、走行中のバスを無理やり止める羽目に陥った。バスから降りても一面の土漠で、身を隠すようなデコボコもなく、バスの車体の下に潜ることは思いつかず、ただダーッとある一点めざして走ったのを思い出す。何か理由があってその一点に決めたのではもちろんなく、もう、どっちに行っても同じなのである・・・。
あの時の苦しさとこっ恥ずかしさを思い起こせば、世の中大抵のことは何とかなる、と思える。というのは少々大げさか。
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by himalaya3 | 2007-12-28 17:45 | 中国シルクロード・1988

蘭州・そして西へ

蘭州は当時、西安、ウルムチと並ぶ危険な街と言われていた。
私にとっての蘭州は、前の記事に書いた顛末によって苦い街であるが、とりたてて危険な街だとは思わなかった。ただ、嫌な街であったことは確かだ。
列車が蘭州駅に着いたのは、真夜中だったと思う。同室だった日本人と自転車力車をシェアして蘭州賓館へ。ドミ8元、10人部屋。深夜のためもう明かりは消えていて、空いているベッドを探すのに一苦労。ようやく見つけて着の身着のまま眠り込み、翌朝起きてみると、自分以外ぜんぶオトコだった。この旅行ではドミにばかり泊まったが、さすがに自分以外が全部オトコだったというのはここだけだ。

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蘭州の全景。
手前を流れる茶色い水は、黄河である。ホワンホー、個人的に憧れの川だったのだが、かなりがっかりした(笑)。

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怒りの蘭州火車駅。
当時の中国は、国営全盛時代であり、どこで何をするのにも「服務員様」のご機嫌が悪ければアウト! の世界だった。そしてほとんどの確率で、服務員様のご機嫌は悪いのだった。商店では目の前の棚にあるビスケットが「没有」だし、ホテルではベッドがあっても「没有」だし、駅ではチケットがあっても「没有」なのだった。もちろん、こちらがもっと言葉ができれば違うのかもしれないのだが。
で、ここ蘭州の列車駅は、噂にたがわずとんでもねぇ駅であった。
とにかく、一等寝台以外絶対に売らない。
「ええと、明日のトルファン行き2等寝台ありますか」
「没有!」
「え、えと、それじゃですね、明後日は・・・」
「没有!」
「え、えと、えと・・・・・・」
ガシャーン!
2回目の質問をしている時点でかなり「うぜぇ野郎だぜ」って顔をしていた服務員は、3回目の質問は許さずに小さな窓に音を立ててシャッターを閉め、茶を飲みに席を立つのである。
一事が万事、こんな感じ。どこの駅でも似たようなもんだったが、それにしても蘭州はひどかった。とにかく、その当時の蘭州で、2等寝台を買えたという話を聞いたことがない。
おかげでこの駅の外人用窓口の木の枠(窓口は手が入るだけの小さな口が開いていて、そこに顔をナナメにして中に叫ぶ方式)には、放送禁止用語がたくさん書き連ねられていた。

蘭州では、耳たぶ麺の屋台がよくあって、皿1杯が1元だった。
正確には「猫耳麺」と呼ぶのかな? 子猫の耳みたいな形にした小麦粉を茹でて、それから野菜などと一緒にガーッと炒めて供されるそれを、私はけっこう好きだった。
ある日、1人でこの麺を屋台で食べていたときのこと。屋台と言ってもテーブルが何台か置かれ、飯時だったのだろう、店はにぎわっていた。私の麺ができて、食べ始めて少しすると、テーブルの向こうに子どもが2人立った。6歳くらいの男の子と、3歳くらいの女の子。年齢はもちろん確かではない。もっと大きかった可能性もある。
男の子は上半身裸だった。女の子は汚れたワンピースのようなものを着ていたと思う。
なんだろう、とただ見ていると、男の子がやおら手に持っていた針金を私にかざしてみせた。そして、そのかなり太い針金を、自分の胸にギリギリと巻きつけ始めた。呆気にとられて見ている私の前で、針金は3回くらい巻かれ、彼はその端っこをものすごい力で引っ張って締め始めた。彼の胸が針金によってくびれ、くびれたところは真っ白に、そうでないところは真っ赤になった。私はただ呆然と、それを見ていた。周囲の男たちは、笑いながらけしかけていたような気がする。多分、いつもいる兄弟だったのだろう。
少年はいったん胸に巻いた針金をほどくと、今度は首に巻きつけて、またギリギリと締め上げた。さすがに制止しようと思わず腰を浮かせると、妹がすっと手を差し出してきた。ポケットに入れていた1元を渡し、ついでに麺の皿も押しやると、まだ熱いそれをとんでもない勢いで兄貴が半分胃袋に流し込み、続いて妹が同じようにした。
屋台のおやじが気がついて怒声を上げたときには、もう兄弟は逃げだしていた。
それから私は屋台のおやじに怒られ、周りの男たちに嘲笑を投げかけられながら、「何なんだ、何なんだ」と腹を立てながら宿に帰った。いったい何に腹を立てていたのだろう。自分にか。周囲の男たちにか。

こういう乞食に会ったのは、私の記憶に間違いがなければ、後にも先にもここだけだ。
蘭州はほんとうに、嫌な街だった。

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さらに西へ向かう列車に乗った。
当時はほとんどの列車が機関車で石炭を焚いて走っており、窓を開けているとバラバラと煤が降り注いでくる。この頃の一等寝台は、まだ窓が開いたのだ。
当時の日記を見返すと、私はこの車中で女性の車掌さんに英語の雑誌を貸してもらい、同室の中国人のおじさんに揚げパンをもらって腹を下したらしい。このおじさんは、しょっちゅう魔法瓶のお湯を取り替えに行ってくれたり、いろんな食べ物をくれたり、地図を見ていると場所を教えてくれたり、とんでもなく親切な人だったと書いてある。
この列車には、42時間くらい乗ったようだ。下車したのは大河沿という駅。ここからバスで1時間ほどかけて、トルファンに行った。
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by himalaya3 | 2007-07-05 21:15 | 中国シルクロード・1988

1988上海・成都

生まれて初めての海外ひとり旅。その最初の地が上海だった。
片道の航空券を握り締めて、成田で飛行機に乗った(乗り込んだときはもちろんボーディングパスを握り締めてたわけだが)。
何もかも初めてで、不安に押しつぶされそうだったことだけは、強烈に覚えている。
しかも飛行機はいきなり4時間半も遅れ、機内ではズボン姿のスッチーに「要るのか要らねぇのか」といちいちすごまれ、紙パックのジュースを放り投げられ、上海到着は夜の8時過ぎ。高度を下げていく機内から下を眺めても真っ暗なばかりで、いったいどこに空港が・・・と思った瞬間に、どすんと着地した。

とにかく暗かった。
空港の建物の中も暗かった。
人がいなかった。
そして到着出口を出たロビーには、おびただしい人の群れがいて、カモを出迎えてくれた。彼らを振り切って逃げるように空港の外に飛び出したが、そこも真っ暗だった。本気で後悔した。なんでこんなところに来てしまったのだろうかと、本気で悔やんだ。悔やんだけれど遅かった。闇雲に歩いて空港ホテルにたどりつき、ともかく部屋を確保したときは、泣きそうだった。もちろん泣かなかったけど。もう大人だったしね。

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で、翌日、タクシーの運転手に拾われて、連れて行ってもらったのが浦江飯店。バックパッカーでこの時期に上海に行って、ここに泊まらなかった人はいないんじゃないかというほどの、老舗中の老舗。写真は女子ドミの窓から浦江にかかる橋を見ているところ。この橋を渡ってしばらく行くと、右手から南京東路がぶつかってくる。そのあたりはバンドと呼ばれている場所で、南京東路に入ると和平飯店があった。その向かいにパン屋があって、そこのパンで食いつないだこともよーく覚えている。

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そして成都に行った。
親切なタクシーの運転手が、飛行機のチケットを買うのを手伝ってくれたから。
ある程度遠くへ行かないと、このまま逃げ帰ってしまいそうな気がした。それに成都はチベットの都、ラサへの玄関口で、ともかくここへは行こうと決めていたのだった。
写真は成都の中心にそびえる毛沢東像。この頃、たとえば北京大学などでは毛沢東像の撤去が盛んに行われていたのだが、ここでは大健在だった。

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成都では峨眉山に登りに行ったのだが、そのときの写真はほとんどない。
そこから戻ってきて泊まったのが、成都といえばここでしょ、と言うべき交通飯店。その窓から見下ろした廃車置場。
というのは嘘で、現役のバスが置いてある。でも実際、自分は、廃車置場だと信じていた。あまりにも汚くてボロボロで・・・。よく考えてみれば、自分が峨眉山に行ったバスだって、走っている間に空中分解しそうなすさまじいバスだったのだが。

峨眉山へ行くバス(たしか報国寺行き)のチケットを買って、教えられたバスに乗り込もうとすると、女性の車掌が私のチケットを手に取り、やおら最前席の男性客のところに歩み寄ると、すごい剣幕で「どけ!」と言い始めた。客は客で言い返し、数分間の押し問答があったのだが、結局、車掌は男性客をそこからどかし、私をその席に座らせた。
実際のところ、私はどこでもよかったんだけど。
突然やってきた外人の姉ちゃんに対する、それが彼女の精一杯のやさしさだったんだろうなと思う。その最前席は、唯一の1人掛けシートだったから。
そのバスの食事休憩のときには、欠けた茶碗に注がれたぬるいビールを乗客に奢られて、サインをせがまれて困った。そうそう、この食事が中国に入って最初のメシ屋体験だった。金魚の絵のついた洗面器一杯のスープにも、このとき初めて遭遇した。

峨眉山の途中まで登ったのだが挫折。山道で水を売っていた老人と「いくら」というのを指数字でやりとりしながらパニックに陥っていた私を助けてくれた親子がいて、一緒に下山することになった。母親と息子。息子は私より3つ年上だった。
山道の途中に、竹で囲った掘っ立て小屋があり、大釜で湯を沸かしていた。その湯をどんぶりでざぶりと掬ったものが1分。1元の100分の1だから、20銭くらいか。それを皆立ったまま飲み、強力たちは生のニンニクやタマネギをがりがりと齧っていた。すごい国だと思った。
麓の町では、彼らが泊まっている招待所にこっそり泊めてもらった。タダで。そして翌朝、バスに乗ったのだが、チケットは必要ないのだという。わけもわからないまま、ともかく彼らとバスに乗り込み、ここに座れと言われた席は、3人がけのベンチシート。しかもそこには既に、若い女の子が3人座っているのだ。その女の子たちは、思い返せばきのう下山のときに何度か見かけた顔だった。彼女たちは嫌な顔1つせずに詰めあって、私を座らせてくれた。それにしても無理無理である。ただでさえ狭い3人がけの椅子に、4人いるのだ。めちゃくちゃだ。
やがて車掌が人数を数えはじめ、1人多いと文句を言い始めたが、私の周囲にいた人々が
「どーでもいいじゃん、早いとこ出発しようや、行こう行こう!」
と大合唱し、バスは走り出した。
「行こうぜ!」って感じで言いたいときは「ゾウラゾウラ!」と言うのだな、というのもそのとき学んだ。

そしてバスは一日がかりで成都に戻ったのだが、その時ようやくわかったのだ。
そのバスは、成都発着の、峨眉山3日観光ツアーバスだった。みんな成都でツアーに申し込んだ人たちだったのだ。たぶん招待所の金額もコミだったのだろう。招待所がタダだったわけも、夕食と朝食がタダだったわけも、バスがタダだったわけも、やっとわかった。
それにしても、と、今も思うのだ。
自分はお金を払って乗っているバスに、明らかにカネを払っていない人間が乗っている、それもただでさえ狭い3人がけの席に無理やりもう1人乗っている。そんな状況を、自分だったらこころよく許すだろうか? と。食べるものはすべて当然のように分け与え、休憩で止まれば何くれとなく世話を焼き、食事のときには丼に無理やりおかずを積み上げる、そんな風に接してあげられるだろうか? 
その女の子たちと、私が知り合った親子とは、家族か親戚なのかなと思ったのだが、成都の駅に着くとたちまちみんな散り散りになっていったから、きっと知り合いでも何でもなかったのだろう。ただそのとき、同じ観光バスに乗り合わせただけの関係。そんな間柄でしかない知り合いが山で拾ってきた外人を、みんなが黙認してくれたのだ。

ここ数年、中国では反日の気運が高まり、日本人である私としては面白くない気分にもなる。それでも私が中国を嫌いにならないのは、こういう出会いが確かにあったからだ。
あの親子にも、女の子たちにも、20年という月日が流れた。みんなどうしているだろう。もう2度と会えないのに、いや、だからこそなのだろうか、こんなに懐かしく、こんなに切ない。

この親子には、謝らなければならないことがある。
親子は蘭州から成都に遊びに来ていて、たまたま私と同じ列車で蘭州に戻ることになった。私は1等車で、親子は3等車。それでも車中で行き来して、私は日中ずっと彼らの車両に入り浸っていた。というか、彼らや周囲の中国人たちが、私を珍しがって離さなかったのだが。
蘭州に着いて、私は外人用のホテルに泊まった。親子は家に遊びに来てくれと言い、一緒に餃子を作る約束をした。
でも、その約束の日、私は蘭州を離れていた。
悪名高かった蘭州駅で、ようやく取れた切符がその日だったのだ、などというのは言い訳だ。私はそれがその約束の日だとわかっていたし、わかっていてその切符を買った。
怖かったのだ。何かこう、深い関係になることが。何かを期待されるのではないかと。たとえば日本に行きたいとか。そんないろんなことが、怖かった。
蘭州へ向かう列車で乗り合わせた日本人が、長く旅をしている人で、散々説教されたせいもある。たしかに私は初めての旅だったわけで、彼から見ればスキだらけに見えたのだろう。中国人にチヤホヤされてのん気に笑っている、どうしようもない小娘に見えたのだろうと思う。
説教されて散々脅かされて、それで反省しちまう自分も自分だ。悪いのはとにかく自分だった。
若かっただけではすまされない、実に苦い思い出だ。

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気を取り直して、成都駅前の刀削麺屋の娘。大きな包丁でぴっぴっと小麦粉のかたまりを削り、沸騰した鍋の中に落としていく。これは汁麺として食べたのだろうか、それともこの後炒めたりしたのだろうか、まったく記憶にない。
成都の麺と言えば坦々麺だが、丼に盛られたそれを見た瞬間ダメだと思い、一口食べて火を吹いた。そしてそのまま、ダッシュして逃げた。もちろんお金は最初に払っているから食い逃げではないけど、あれは恥ずかしかった。それにしても辛かったな。

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交通飯店の、1988年5月当時の4人部屋ドミトリー。
ワイホイで7元くらいだったと思われ。人民元で9.6とか9.4とか、そんな感じだったと。
ぶら下がってるのは自分の服とかタオルとかだ。知らない間に横のベッドのヤンキー娘が自分のパンツを干してたりもした。

そんなこんなの、1988年・上海、成都だった。
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by himalaya3 | 2007-07-04 21:57 | 中国シルクロード・1988

飯屋

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トルファンのバザールの中にあった麺の屋台。
水を加えて練った小麦粉を、両手で伸ばしてたたみ、伸ばしてたたみ、1本が2本に、2本が4本に、4本が8本に、8本が16本に・・・・・・、と細い麺に仕上げていく。
これがいわゆる、拉麺(ラーミェン)なんだろうか。多分そうだと思うが。
この麺を茹でて、水に放す。それを皿に盛って、上に野菜や肉を炒めたものをぶっかける。あるいは、唐辛子醤油のようなものをかけて食べる。この屋台では、後者を売っていたと思う。
このおばあさんは何を待っているのだろうか。
茹でない麺を買って帰るところなのだろうか。

ところで、私はこの旅の間、一度もこの麺を食べなかった。
麺をさらす水は、どこかの水路で汲んだもの。それをロバ車がドラム缶で運んでくる。
皿を洗うのは大きな洗面器に張られた汚れた水。
その皿を拭くのは、雑巾としか思えない真っ黒に汚れたボロきれ。
食うほうが間違ってる。
もっとも、食堂の裏側だって、どこも似たりよったりではあったのだが。

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こちらはカシュガルの飯屋。場所は・・・・・・、忘れた。たぶん日曜市場の中ではないかと。
サフランで色付けしたピラフのようなものに、羊肉がのっかっている。1皿2元とか、1元5角とか、そんなものだったと思う。1元ではさすがに、これは買えない(と思う)。
そうだ、思い出した。
この直前に、カシュガルに向かうバスで途中まで一緒だったアメリカ人2人に再会し、一緒にここへ来たのだった。言葉ができず、漢字も読めないアメリカ人を案内する形になったわけだが、ウイグル人たちは私を漢族と思ったようだ。皿を渡してもらう順番を待っているとき、店の男が私の足を踏んづけてきた。間違えて、ではない。わざとである。そして、足をどけない。ニヤニヤ私の顔を正面から眺めながら、いつまでも踏んづけている。
周囲のウイグル人たちも、私がどうするのかと、面白そうに眺めていた。
様子に気づいたアメリカ人が英語で何か言うのと同時に、私も
「私は日本人だから!」
と言うと、「おっと」と今気づいたように足をどけたが、おそらく彼は私の言葉を理解したわけではなかっただろう。

町を歩いていても、時折刺すような敵意のこもった視線を受けることがあった。白人と一緒にいても、私が1人でいても。
この頃はまだ新疆ではたびたび独立を求める動きがあったのだ。

数年前にテレビでカシュガルの現在を見た。
入場料を払って入る旧市街。そこはかつて旅行者が自由に歩き回れた町だ。私もその路地を迷子になりながら日差しにあぶられながら野良犬と一緒に歩いたものだ。
今のその町には、漢族のツアー客を家に招き入れ、娘にウイグルダンスを披露させて収入を得る家族がいる。ビデオカメラやデジタルカメラが娘を執拗に追い回す。帰り際、太った漢族の男が、小さな娘の手にチップの10元札を握らせる。その横には、男にしきりに頭を下げる父親がいる。
テレビカメラが見た町と、私がそこに行って見る町は、もちろん違うだろう。私はそんな風景を見ないかもしれない、見ないですむかもしれない。
それでも、ほんの十数年前に、白人を案内して歩く生意気な漢族小娘の足を笑いながら悪意をこめて踏んづけたウイグル人は、いったいどこへ行ってしまったのかと思うと、胸の中をすうすうと風が吹き抜けるような気がした。

私の足を踏んづけて笑ったあの男は、今どうしているのだろうか。
私が再びこの町に行くことがあったなら、また踏んづけに来いよ、体当たりして来いよと、言いたい気分もちょっとだけある。変な話だが。
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by himalaya3 | 2007-05-14 22:00 | 中国シルクロード・1988

カシュガル1988年6月 (2) 

チムニバ賓館の鉄扉は夜にはぴたりと閉ざされる。真夜中の1時近い時間にそこで下ろされた私は必死にその扉を叩き、大声で「すいませーん! ハロー! ニイハオー!」と叫んだのだが、誰も門を開けてくれなかった。このままここで夜明かしか・・・、と思ってあきらめて、10分ほど座り込んでいたところに、ロバ車が通りかかった。この御者の少年はいいヤツで、私の状況をすぐに飲み込むと、ひらりと鉄扉によじ登り、どこかからか門番を連れてきてくれた。
おかげで私はなんとか野宿を免れたのだが、この少年の写真も撮っていないのだ、後で気がつけば。

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そうして転がり込んだのが4人部屋の1ベッド。ほかのベッドにはオーストラリアからの3人組(男・女・女)がいた。1ベッド4元。
帰国後、この写真を見た友人は、
「オマエ、何やったんだよ・・・・・・」
「え、何って、なに?」
「これ、留置場じゃないのかよ」
うーん・・・・・・。
たしかに、留置場ではないにしても(鉄格子もないし)、これがホテルの部屋だとはちょっと信じ難いか。
チムニバ賓館(チニバクと言う人もいて、未だにどっちかわからない)のこの部屋は平屋の長屋づくり。トイレは歩いて3分ほどかかる遠くにあった。
当時、パキスタン国境へ向かうバスは、ここから出発していた。たしか曜日が決まっていて、その時間に見に行くと、屋根の上に家電製品を山積みにして、パキスタン人たちが帰っていくのだった。
パキスタン人たちは別の棟に固まって泊まっていたが、コンロを持ち込んで自炊していたようだ。前を通りかかるとよくチャイをご馳走してくれた。ご飯時に通りかかってご飯を振る舞われたときは、後で同室のオーストラリア人に「知らない人にご飯を振る舞われてはいけません」と説教されたなあ。

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前後するが、トルファンからカシュガルへ向かったバスがこれ。これと言っても、ずいぶん遠くに写っているのだが。どこかの集落で、食事休憩をしたところだと思う。
道路は舗装工事の真っ最中。つまり、まだ全線舗装はされてはいなかったのだと思う。ちょっと記憶が定かではないのだが。
大掛かりな工事をしている箇所では、堤防のように砂漠から盛り上げた道路から下り、道なき砂漠を数百メートル、もしくは数キロに渡って進み、また堤防に戻る。その繰り返し。川には橋がなく、そのままズバズバと水をかきわけて前進した。
今はカシュガルまで鉄道が通り、陸路もずいぶんよくなったらしい。
2度とやりたくない、とその時は思ったが、今になってしまえば、やりたくとも2度とできない、のである、こんな旅は。
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by himalaya3 | 2007-05-12 23:01 | 中国シルクロード・1988

カシュガル1988年6月



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1988年、まだ天安門事件も起きる前の中国の最果て、カシュガルの日曜バザール。
6月の初めだっただろうか。
暑いはずなのに、男たちがなぜこんなに厚着なのか・・・。

カシュガルの前に滞在したトルファンでは、連日気温は40度を突破し、地元の人たちも旅人も、みんなブドウ棚の下にだらだら居座って、葡萄酒やら汽水やら飲んでいた。この頃はまだミネラルウォーターなど、普通には売っていなかった。
ときどき大きなツアーがやってくると、夜、ぶどう棚の下ではウイグルダンスの宴が催され、私のような個人旅行者も紛れて見物することができた。

トルファンからカシュガルへは、2泊3日のバス路線しかなかった。
そのバスのチケットを買うのが一仕事。
当時はまだ「外貨兌換券」が存在し、列車や飛行機には「外人料金」が存在した。バスには外人料金がないハズだったが、トルファンのロバ小屋のようなチケット売り場では、ウイグル人のオヤジが「兌換券での外人料金」を請求し、連日旅行者たちと熱い戦いを繰り広げていた。
粘りに粘って、最後は人民元をカウンターに叩きつけるようにしてチケットを手に入れたのは、並び始めてから確実に2時間は経過した後だった(と思う)。

ベンチシート1列5人がけのバスはうんざりするほどボロで、よく故障した。夜明け前に出発し、その日の宿泊地に着くのは深夜11時前後。バス駅の旅社の汚いベッドで短い睡眠をむさぼり、また夜明け前にはバスの扉の前に集まる。
北京時間、北京夏時間、新疆時間、という3つの時間にも振り回された。扉の前で運転手が来るのを1時間待った朝もあった。
太陽にあぶられれば地獄のような暑さとなり、スコールがくればたちまち砂漠が濁流となった。村の停留所で下りて休めば、黒山の人だかりができた。スカーフをかぶった小さな女の子が、あやとりをしようと誘った。軒下で豆をむいている母親が、心配そうにちらちらとこちらを見ていた。
乗客は次々に変わり、太ったウイグルのおばさんが隣に来れば、こちらの尻は半分以上通路にはみ出した。赤や青に染めたゆで卵を山に積み上げて売っているのを、この太った隣人は何度となく買っては私にもくれた。

カシュガルにバスが滑り込んだのは、3日目の夜12時過ぎ。
全身砂だらけで疲れ果て、最後に隣に座った初老の男性に誘われるまま同じロバ車に乗り、「いちばん安い宿」と連呼して町外れのチムニバ賓館に行ってもらった。この男性はどこに行くところだったのか、私を乗せて遠回りになりはしなかったか。3元と決めて乗ったのだから私の払い分は1元5角。しかし男性は頑として受け取らず、私を賓館の鉄扉の前に残して走り去っていってしまった。
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by himalaya3 | 2007-05-12 01:21 | 中国シルクロード・1988