カテゴリ:西北ネパール~カイラス1992( 15 )

新疆ウイグル自治区カシュガル、ウルムチ

チベット自治区ンガリ地区の基地の町・阿里を出てから4日目に、最後の峠を下って新疆の暑い空気の中にたどり着いた。途中トラックストップで2泊、3泊目は例の難所越えのため徹夜だった。下に下り着いたときには、フラフラだったと思う。
ポプラ並木、その横の水路、板作りの小屋、赤や黄色がまぶしい民族衣装、野菜や果物が山積みの軒先・・・。そのどれもが衝撃的に目に飛び込み、ああ、チベットの旅は終わったんだなーと、しみじみとぼやけた頭で考えた。

葉城に着いたのは夕方だった。運転手にお金を渡し、お礼に夕食をご馳走すると誘った。そして食堂に行ったのだが、私を乗せてくれた運転手も、もう1人の運転手も、ほとんど何も口にしないのである。聞けば、チベットから帰った時はいつもこんな風で、胃が痛くて何も食べられないのだそうだった。それは悪いことをしたなぁと思いつつ、それほどに過酷な道行きなのだと、あらためて思わされたのだった。
そう、阿里を出る時は5台だったグループなのに、到着したのは3台だけだったのだ。

葉城からカシュガルは、バスで1日の距離だった。
カシュガルでは老賓館に泊まり、冷やしトマトに冷やしきゅうりに冷やし肉を食べて、あっという間に倒れた。危ないなと思いつつ、どうしても食べたかったのだ。食べずにはいられなかった。

b0033537_20261746.jpgカシュガルの日曜市場。馬に試し乗りをしている。ここは88年に続いて2度目だが、いつ行っても男の世界という感じだ。もちろん、服やカバンなどを売っているエリアには女性もたくさんいるが。


b0033537_2027268.jpg「写真撮って撮ってー!」と走りよってきたウイグル人の兄妹。撮ってあげると大満足して、住所も告げずにまた走り去って行ってしまった。おいおい、写真は送らなくていいのか! と追いかけようかと思ったけれど、かなり疲れていたので呆然と見送ってしまった。


b0033537_20282355.jpg新疆飯店(自信なし)からまっすぐにウルムチ駅へ続く道。1992年7月は、こんな風景だった。車など、ほとんど走っていない。当時はバスとトラックの類ばかりが走っていたような記憶がある。普通のセダンなどは一番見かけないタイプの車だった。

さて。
旅の終わり、私は広州まで何とかたどり着いた。最後に残る問題は、中国を出国すること。
なぜなら私のパスポートには、中国ビザはないままだったから。
私のパスポートに押されていたのは、入国スタンプと、ビザ延長スタンプ。ビザがないのだから、ビザ延長スタンプは無効である。
船で香港に出ることにした。人間が乗る前に荷物が全て船に乗ると踏んだからだ。事実そうだった。乗船が始まってから私はずっと待ち続け、最後近くなってようやく列に並んだ。
窓口では、当然、私のパスポートは問題になった。役人が集まり、何事か相談したり私に詰問したり。私はただただ、「これでどこまで行ってもいいと言われたんだもん!」と繰り返した。船の汽笛が鳴り響く。船員が走り回る。最後の乗客が乗らなければ船は出航しない。私の荷物だけを探して下ろせるわけがない。
予定時刻を何分も超過した。ついに役人たちが折れた。出国スタンプが押され、パスポートは返された。そして私は船員と一緒に走って船に乗り、中国を離れたのだった。

私がこのルートを行った翌年、シミコット~カイラスルートは公式な観光ルートとして開かれた。ただし特別な許可証を得て、代理店を通じてキャラバンを組まなければならない。ずいぶんお金はかかるだろうと思うが、魅力的なコースであることは確かだ。

旅を終えて日本に戻り、私はムチュのボスに手紙と写真を送った。「あの後、道に迷っちゃって、でも最後はシミコットに出られて帰りました」と、うそ八百を書いた。そうじゃないと、彼の責任問題にもなりうると思ったからだ。
ボスからは、丁寧な返事が来た。
「今年はまだ開放されていなくて残念だったけど、来年、このコースは誰でも行けるようになるから、またいらっしゃい。ムチュに寄るんだよ。写真は村の人たちに渡したよ」
そう書かれてあった。この手紙を、私は今も手元に持っている。
あれからもう15年。もうボスはあそこにはいないだろう。まさかマオイストとの戦いで命を落としたりしていないといいのだが。
もう一度、ボスに会ってみたいと今でも思う。あのとき、本当はわかっていたんだよね、と聞いてみたい気もするが、それはお互い野暮というものか。
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by himalaya3 | 2007-12-20 18:25 | 西北ネパール~カイラス1992

阿里から新疆ウイグル自治区へ

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阿里は別名獅泉河とも呼ばれ、どちらが本当なのかもう忘れてしまった。巨大な解放軍基地があるこの街は、ほかには何もないと言っても過言ではない。うら寂しいデパートが1つ、銀行がたしか1つ、ほかに賓館が1つ、招待所が1つ。市場が1つあって、ここには食堂と小売商店がごちゃごちゃっと固まってあった。漢族ばかりのさびしい小さな町だったような気がする。買い物に来ているチベット人などはいたと思うが。

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阿里から新疆ウイグル自治区の葉城まで、当時は4日かかった。途中、トラックストップのような場所に泊まりながらの旅である。
これは死人杭という地名の道班。ここで昼休憩をした。
巨大な黒いカラスがたくさんいて、気持ち悪かった。

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どこで撮影したのかもう覚えていないのだが、このルートのどこか。日土かもしれない。馬を連れた老人が歩いていた。

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ルート中の難所、苦地大坂(クディ・ダーバン)。
ここが一週間に1日しか開かず、一気に両方から車が集中するため、かなりの混乱ぶりだった。土というよりは土の粉と言ったほうがいいような、すさまじく微細なものが堆積した道路は、ほとんどが車一台通るのがやっとの幅しかない。路肩に車止めなどあるはずもなく、ここから転落すればもちろん一巻の終わりだ。

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ところどころに車待ちの場所が作ってあり、私の乗ったトラックもここで2時間かそこら、上から降りてくる(チベットへ向かう)トラックを待ち続け、やり過ごし続けた。待っている間に日は完全に落ちて真っ暗闇になり、運転手がどこかへ行ってしまった助手席で、カラカラカラと絶えず聞こえる崩落の音に怯え、ヘッドライトに照らされた路面がすさまじい速さで流れていく幻覚に悩まされながら、座っていた長い時間を今もまざまざと思い起こす。そんなときに、空なのか山なのかわからない真っ黒のはるか高みでピカッと何かが光る。それはまだ続く対向車のヘッドライトで、それをやり過ごすまではこちらは発車しない。それが驚くような高さで時折光るのが、この世の者ではない何者かが下りてくるような気がして、不思議な気持ちで見ていたものだった。
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by himalaya3 | 2007-12-08 01:30 | 西北ネパール~カイラス1992

聖山カイラスとタルチェン

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早朝のカイラス山北面。
カイラス山はチベット仏教徒にとって一生に一度は訪れたいと願う信仰の地だが、この北面の美しさと凛々しさを前にすれば、誰もが理由など問わずに納得するだろう。
時々この山に登りたいと考える人が現れて、そのたびに物議をかもす。つい数年前にも、中国政府がどこかの国(スペインだったか・・・?)の登山隊に登頂許可を出して騒動になった。結局、あまりの反発におそれをなした登山隊が、申請を取り下げて終わったのだが。
写真を撮ったのはカイラス一周約50キロの巡礼路途上の、ディラプク・ゴンパという地点。名前のとおり小さな、そして破壊されたゴンパがあり、その下に小さな土作りの宿坊があった。ただ建物があるというだけで、ベッドや机といった家具は一切なかったと記憶している。シーズンが始まったばかりの時期だったが、管理人の男と、バター対ツァンパの物々交換をしたことをよく覚えている。管理人の部屋にはヤク糞ストーブがあり、お茶も飲ませてもらっていたか。

北面直下から再び巡礼路を歩き出すと、有名な「ドルマ・ラ」という峠がある。標高は5630m。ディラプクが5210mほどだから、標高差は400と少し。
これに近い標高はネパールで経験していたが、その時はピークハントだからほとんど空身で登っている。今回は20キロに近い荷物を背負っているので、自分ではちゃんと歩いているつもりでも、傍から見れば倒れる一歩手前くらいのヨレ方だったかもしれない。助けてやろうかと言ってくれた人も何人かいた。ありがたかった。でも、何とか自分で担ぎ上げた。峠は雪だった。

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死の渡河地点。
途中でどうやら道に迷い、本来は川の西、カイラス寄りを歩くべきところを、対岸を歩いてしまった。永遠にどこへも着けそうもないので、どこかで渡らなければならないのだが、川はまだ氷結していた。しかもまずいことに、それが緩みかかっていた。
杖で氷をガンガン叩きながら、決死の覚悟で渡った。
落ちれば間違いなく、浄土へと旅立っていた。聖地の巡礼路上で死ぬというのも、悪くはないとは思うものの、この時ではまだいささか早すぎた。

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巡礼のベースとなるタルチェン村の様子。
白い布テントがたくさん張られていて、中には商品をたくさん持った商人もいた。ビスケットを売ってもらった。広州で作られたビスケットで、驚くほどうまかった。その後同じ商品をどこで食べても、そんなにはうまくないのである。
巡礼たちはここを未明に出発して、健脚な人だとその日の夜には戻ってくるという。そこまで屈強でない人は、たいてい北面のディラプク・ゴンパあたりで野営するようだ。

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タルチェンから最初南へ、それから西へ、最後に北へ向かっていく道。遠く見えている雪山はナムナニ峰だと思う。
次の目的地であるアリまでおよそ300キロ。運よくトラックが見つかった。途中で運転手が立ち寄ったチベット人の家で、熱いヤギのミルクをご馳走になった。生まれてこの方、こんなにうまいミルクってものを飲んだのは、後にも先にもこの時だけだ。
運転手は漢族だったため、トラックは空いていた。チベット人はチベット人が運転する車に乗りたいのだという。途中までは助手席に地元の母娘が乗っていたが、この人たちが降りた後は助手席に乗せてもらえた。荷台に比べれば天国のような道行きだった。
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by himalaya3 | 2007-10-27 17:40 | 西北ネパール~カイラス1992

マナサロワール湖とカイラス南面

プラン(普蘭)を出発したトラックは、荷台に荷物とチベット人と私を満載して、でこぼこの道を北へ走った。荷物は箱に入ったビール(らしきもの)と、南京袋に詰まった得体の知れないごつごつしたもの、であった。それらが荷台に敷き詰められているので、人間はその荷物の上に乗るしかなく、座ると言っても座りづらく大変だった。条件がマシそうな前のほうは当然ながら地元の人によって占有されており、私のようなよそ者は乗せてもらえるだけ御の字で、後ろのほうに乗った。

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トラックは途中、道を逸れてマナサロワール湖に寄った。ここは聖なる湖であり、仏教徒であるチベット人たちにとっては、カイラスよりはいささか順位が下がるけれども、立派な巡礼地なのである。ここに至るまでの峠でも、風の馬を投げて祈ってきたのだが、ここでも石積みにタルチョーを取り付ける者あり、湖に何か流すものあり、で、にぎやかな一休みとなった。

カイラス巡礼の基点となるタルチェンに到着したのは、午後2時頃。この日は一日曇っており、カイラスはまったく見えなかった。
予定ではここで泊まるつもりだったが、招待所と値段の折り合いがつかず、テントを持っているので歩き出してしまった。村(と言っても定住している人はごく僅かだったと記憶している)の人に巡礼路を聞き、それらしきトレイルを西へ向かう。風が強く、小雪も舞いだしてビバーク。

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朝起きると、こんな風景が広がっていた。遠くかすんで見えるのは、ナムナニ峰か。かなり長時間降っていた雪だが、軽くて飛ばされてしまうためか、意外にも積もっていない。地面がうっすら白くなっている程度だった。
北、カイラスの方向を見上げるが、前方の山が邪魔したのか、あるいは曇っていたのだろうか、ここでは山を見ることはなかった。

さらに巡礼路を西へ歩き、やがて前方に尾根が立ちふさがった。たいした高さではないが、道はそこで明らかに北へと方向を変えるようだ。
尾根を向こう側からボン教徒の親子が越えてくる。仏教徒は右手にカイラスを見ながら回るが、ボン教徒はその反対に回るのだ。白い馬を連れた親子は、笑顔ですれ違っていった。
尾根には小さなストゥーパが立っていて、それを回り込んだとき、初めてカイラスを見た。正確には、西南西面、ということになるだろうか。

爆発的な感情が湧く、動く、といったことはなかったと思う。
ようやく、ようやく、たどり着いた地ではあったが、「キャー」とか「うれしーっ!」とか「やったー!」とか、そういった感情は抱かなかった。私は静かに、呆けていた、と思う。なつかしい、なつかしい人に会えたような、そんな感じ。ちょっと気恥ずかしいような。

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この日はもっと先まで行くこともできたが、昼前に歩くことをやめてしまった。だって先に進んだら、この南西面とはお別れだから。早く進んでしまったらもったいない。
チベット人なら1日、ゆっくりの人で2日、外国人なら2日半から3日、というのがカイラス一周の標準所要時間だが、別に誰に迷惑をかけるわけでなし、誰のスケジュールで動いているわけでなし、ゆっくりゆっくり行こうと決めた。
南西面直下のタルボチェというストゥーパのある場所にテントを張り、遊牧民が羊の群れを連れて歩くのを見たりしながら、午後いっぱい寝転んで過ごした。
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by himalaya3 | 2007-10-06 16:59 | 西北ネパール~カイラス1992

チベットの道とプラン(普蘭)

科加~普蘭間の道
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チャン・ラを登っているときにすれ違ったカトマンズからの巡礼の話では、国境を越えたシアルからタクシー(!)があって、それを使えばカイラスまで1日だ、とのことだった。半信半疑で(というか95%は疑って)シアル村に行ったのだが、やはりタクシーなんぞはいなかった。それでも車道があり、車が時々は通っているらしく轍も残っていたので、すこし安心した。何しろネパール側は車はおろか馬さえ危険と思われるような、細い山道しかなかったのだ。

シアルから次のコジャ(科加)までは数時間。ここで1泊(ゴンパで)。
そこから普蘭まではおよそ30kmと聞いており、車に乗りたかったが、残念ながらそのようなものは影も形もなく、村の雰囲気もよくなかったので歩くことにした。工事現場の人たちが、「3時間だ」と言ったのも歩くきっかけとなった。

石と砂礫混じりのだだっ広い大地に、あるところははっきりと、別のあるところは微かに、車の通った痕がある。これを辿りながら、ただただ歩いていった。
左手はるかにカルナリ川が流れている。時々、水の音が聞こえるほどに近づいたりもしたが、大抵はキラキラ光っているのでそこが流れだとわかる程度に離れていた。最悪、そこまで行けば水が得られると思いつつも、場所によってはキロ単位で離れてしまうので、やはり水は持って歩かなければ不安だった。

テント、シュラフ、最低限の着替え、薬品や小物、コンロ、コッヘル(簡易鍋)、灯油のボトル、わずかの食料、カメラ、フィルム。この装備だけでザックは満杯であり、重量はほぼ20㎏。これに常時水を2リットルほど持っていたので、しめて22㎏。
1日に食べられるのは、インスタントラーメン1.5袋とわずかの米または小麦粉またはダルマート(ネパールの簡易食?)。毎食、インスタントラーメンの半分を煮て、そこに他のもの(大抵はすいとん状にした小麦粉)を加えて食べていた。たまに米を炊くこともあったが、それはごく稀なことだったと記憶している。
ネパールで買った灯油は水が混ざっていたのか不完全燃焼するばかりでコンロは使い物にならない日も多く、そんな時はそのへんに落ちている枝を拾い集めては燃やし、どうにかお湯を沸かして食いつないだ。

プランまでは実質10時間、休憩時間も含めると12時間以上かかった。荷物が重すぎたせいだろう。1時間に3キロ歩いたかどうか、というところだ、これでは。
結局、この日は1台の車も見かけなかった。向こうからも来なかったし、後ろからも抜かれなかった。それでも時折、遠くを走る車の音と巻き上げる砂煙を見かけたことがあった。道がどうなっているかわからず、あの車はここに向かってくるのではないかと思い、大地の凸凹に隠れてやり過ごそうとするのだが、それらの車は道のないところを走っていたのか、あるいは別の道があったのか、一度も私に近づいてくることはなかった。
体力も気力も尽きかけようとしたころに、遠くにプランの町であろうパラボラアンテナの反射光を見たときの感激は、まるで昨日のことのようだ。後にも先にも、あれほどの荷物を背負ったことはないし、あれだけ長時間にわたって歩き続けたことはない。

プランの町はずれに入ったところの民家で、おばあさんに手招きされ、バター茶をご馳走になった。このとき、チベット語を話すおばあさんと、チベット語を話さない私の間に立って通訳をしてくれた少年と、まさか次の年にまったく別の国の町で再会することになろうとは。この話はまた別の機会があれば。

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プランの町。
これは北のはずれだと思う。左手の斜面の上には解放軍の駐屯地があった。川の向こうに見えている比較的新しそうな建物は、税関などの政府の建物だった。国境警備隊の事務所や公安局やプラン賓館や銀行は、道なりにぐーっと左にカーブしていった先にあり、その向こうにプランの町、人々が暮らすエリアが広がっていた。
私が泊めてもらっていた解放軍の招待所は、おそらく、画面下に見えている道と川に挟まれたエリアにある建物のうちのどれかだと思われる。ちょっともう記憶が定かではないのだが。

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上の写真と同じような場所から撮っていると思うのだが、町に近づいているのか遠ざかっているのか、立っている場所も高くなっているのか低くなったのか、よくわからない。記憶が曖昧でまことに申し訳ない。
このあたりがヒッチ・ポイントで、毎朝暗いうちに起き出してここに行き、トラックが来ないか待っていた。ということは、解放軍の招待所からそう遠い場所ではないと思う。

プランでは6日間禁足となり、パスポートを公安に預けて(没収されたとも言うが)滞在していた。
何しろ私は公安の面々を相手に滔々といい加減な中国語をまくしたて、自分がここに来たのは正当な行為であり入国を許可されて然るべきである、という態度を貫いたので、彼らとしても単純に追い返すわけにもいかなかっただろうし、何より面白かったのではないか、と思う。
6日目に簡易裁判の判決が下ったとのことで、私は罰金刑を受けて入国を許可された。実際のところがどうだったのかは、私にはわからない。当時、こんな小さな案件で北京に連絡して裁判をして、などということをやっていたはずがない、とも思うが。いずれにしても私のパスポートには、かろうじて中国の入国スタンプが押され、ごくわずかだけ格好がついた。ビザはもっと北にある阿里という町で取れ、という話だった。
それからトラックが出るまでさらに3日待ち、プランに入って10日目にようやく巡礼トラックの荷台に混ぜてもらえることになり、町を離れることができた。
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by himalaya3 | 2007-09-24 16:38 | 西北ネパール~カイラス1992

国境 西北ネパール~西チベット(8)

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西北ネパールのフムラ郡シミコットから歩き始め、途中ムチュ村にある最後のチェックポストを夜明けに脱走して通り抜け、星明りを頼りに夜歩き、昼間は人目を避けてブッシュの中で幕営しながら、8日目にヒマラヤの峠を越えた。峠の名前は定かではないが、私が持っている地図によれば、チャン・ラだと思われる。
雪の降り積もる北側の斜面を下った。途中で太陽が山に沈み、後はどんどん暗くなる空と競争で転がるように下りていったのだが、峠の下の平地に下りつくと同時にあたりはとっぷりと暮れた。星明りでカルナリ川の水を汲み、お湯を沸かして簡単な夕食をとった。
一夜明けると快晴だった。ネパール側からヤクを連れた男が下りてきた。ヤクはみな材木を背負っている。もしかすると、前日にすれ違ったヤクを連れたカムバの一団かもしれなかった。

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ネパールと中国チベット自治区との境は、このカルナリ川だ。
峠の直下から、それほど遠くない。この橋が、ふたつの国を結ぶ。当たり前だが、対岸に渡れば中国だ。
想像していた国境は、もう少し谷が狭まっていたり、樹木があったり、崖になっていたりして、何かしら秘密めいた雰囲気のある場所だったのだが、実際のそれは乾いた平地に悠々と青い水が流れ、そこにかかる橋はあまりにも素朴で邪推のしようもなく、太陽に満遍なく照らされて一点の曇りもなく、正々堂々とそこに横たわっているのだった。
そして、辺りに人の気配はまったくなかった。「誰もいないわよ!」と、行き会った白人トレッカーが言っていたとおりに。
躊躇しなかったわけではないが、それでもあっけなく、橋を渡ってしまった。少なくとも、峠を下りた瞬間に比べれば、不安や恐怖はこちらのほうが少なかった。何しろ天気がよかったのだ。

橋を渡ってから、前日に越えてきた峠を振り返った。もう峠の取り付きはカーブの先になって見えず、峠の上のほうもどこがどうなって向こう側に続くのかわからなくなってはいたが。
たくさんの人に世話になって歩いてきた。みんなが助けてくれて、自分はここまで歩いてこられた。そのことと、自分がネパールの法を犯したことは、一生忘れずにいようと思った。
本には書かなかったし、前回の記事でも書かなかったのだが、私はムチュを抜け出してからもう一度、ボスに会っている。警備隊が私を追わなかったのは、一本道を向こうからボスがこちらに向かっていたからだったのだ。
ボスは私の下手な言い訳を聞き、「それじゃ、後からムチュに戻ってきなさい」と、見逃してくれたのだった。もちろん彼は、私が中国に入国できる可能性はゼロだと思ったのだろう。私のような人間は意外とたくさんいて、彼らもほとほと手を焼いていた可能性もある。どうせ帰されてくるのだから、まあ行きたいなら行きなさい、と思ったにせよ、彼がそれを許してくれなければ、私が峠を越えることはなかったのだ。
ありがたかった。そして申し訳なかった。
でも自分には、進む選択肢しかないのも事実だった。

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国境を越えてすぐに出会ったネパールの人。塩を買いに来て、これから戻るんだと言っていた。今日は峠の中腹まで行くと言っていたが、さて、どこかにビバークするような場所があっただろうか・・・?

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塩を背負ったヤギ。いや、ヒツジ?
革を縫って作った袋に入れた塩をみんな2つずつ背負っていた。意外と少ない。それともけっこう重いのだろうか。

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いま見ると笑顔の人もいて、そんなに悪い雰囲気でもないのだが、当時はひどく嫌な村に思えて早々に退散しようとしたシアル村。中国側に入って最初の村だ。人々としては、珍しいオモチャが来たような感じだったのかもしれない。とにかくもの珍しいから見物しよう、という感じ。
村はずれの道路工事の飯場で、ご飯を食べさせてもらった。白いご飯に、大根と肉の炒め物をぶっかけたものだったが、食べきれない分は大事にコッヘルに入れて次の村まで持っていった。

さて。
ネパールを出て中国に入ったものの、私はネパールを正式に出国したわけでもなく、同様に中国に入国したわけでもない。国境を越えれば常に押されるはずの出国スタンプも入国スタンプも、さらに言えば中国のビザさえ私のパスポートにはない。いま私がここにいることは誰も知らず、私はムチュ村で目撃されたのが最後の公的な足跡で、以後ふっつりと消息を絶った状態とも言えるのだ。
さて、どうする。
行けるところまで行くか。
とりあえず、次の村まで。
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by himalaya3 | 2007-09-21 22:56 | 西北ネパール~カイラス1992

峠を越えて

ヤンガル村でダル少年と別れた。
選挙休暇が終わるまでに学校に戻らなければならない彼の事情と、この先は単独の方が何かと動きやすいと思った私の事情が、うまく合致した。荷物の一部を彼に託し、私は60ℓのザックを背負い、カメラを突っ込んだかばんをたすきにかけて、西に向かって歩き出した。

ムチュ村まで約半日。
チェックポストにボスの姿はなく、さらに西の国境近くへ出張っているとのことだった。ここで1泊。もちろん、西へ進む許可は下りない。
ここまでに3つの大きな出来事が私を西へと進ませてきた。最後のポイントが、ここにボスがいなかったことだ。
もしこのとき、ここにボスがいて、「よく来たよく来た」と歓待されてしまったならば、私はおそらくそのボスを振り切って西へ進みはしなかったのではないか、と思うのだ。そうして思えば本当に、奇跡のように偶然が、よくもまあ重なったものだと思う。

さて、ここから私は国境に向かって逃げていくわけなのだが、詳しいことは既に書いているので(『チベットはお好き?』山と渓谷社刊)、もう一度恥の上塗りをするのもなんだか気がすすまない・・・。ここは簡単に説明するに止めます。

ムチュを未明に出発して、街道を西へ走る。警備隊に追われていると思ったが、結果的には誰も追ってはこなかった。この日はヤリ村に近いと思った地点で幕営。
翌日、雨から雪に変わる天候の中、やはり未明に歩き出すが進めずに数時間で幕営。まだヤリ村にすら着いていない。
翌朝、ようやく晴れてヤリ村を通過。行商の人たちに助けられて峠を登る。向こう側からも、雪待ちをしていた人々がどっと峠を越えてきていた。巡礼や兵隊など様々な人とすれ違う。ヤクを連れたチベットの人たちもいた。
実のところ、ヤンガル村を出た直後に振り返って村を撮影して以後、ヤリ村の麓で峠を見上げた朝までの間、1枚も写真を撮っていなかった。逃亡者になってしまった自分には、そんな余裕はどこにもなかった。

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雪の降り積もる斜面を登り、ようやく峠に立った。標高約4720m。
そのとき最初に目に入ったであろう光景が、この写真だ。
私を待っていてくれた行商の男が、私の無事を確認すると、はるか先を下っていく仲間を追って走るように下りていった。何人もの人が行き来したので、踏み跡がついている。私はここでザックを下ろし、びちゃびちゃの靴下を脱いで絞った。
この日、この峠を30人とかそのくらいの人間が越えたが、最後にここに立ったのが私だった。

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細長い峠の隅っこに立ち、チベットの大地とこれから下っていく斜面を見下ろした。
チベット側は雲が低く垂れ込めて暗く、晴れて光が溢れるネパール側とは対照的な風景だった。

実際の国境ははるか下を流れる川にかかる橋である。
しかし今思い返しても、国境の橋よりもこの峠のほうが、決断を迫られたという意味でははるかに重く記憶に残る。
そう、ここで引き返すという選択肢もあったのだ。引き返し、チェックポストで「すまんすまん、ちょっと峠まで行ってきちゃった」とごまかして(ごまかせるか?)帰るという道も。

このまま自分は二度と生きて国に戻れないかもしれないと、少しだけ思った。
でも、それでも、行くしかないなと思い決めた。
そっちに決めたことに理由なんかない。と思う。

ぐずぐずしていると、峠を下る前に日が暮れそうだった。峠の登りが長く急だったため、持っていた水をぜんぶ捨てていた。それでも重量としては20㎏ほどだったと思う。しょうがないので途中は雪を食った。峠で雪を集めようとしたが、あまりに乾いていてうまくいかず、水のあるところまでどうしても下る必要があったのだ。凍った雪の斜面につけられた踏み跡をはずさないように、慎重に下りはじめた。
この日、私はヒマラヤ山脈を越えた。
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by himalaya3 | 2007-09-18 21:05 | 西北ネパール~カイラス1992

ヤンガル村へ

チェックポストのボス一行が出発した翌日、雨がやんだので出発した。次の村はヤンガル。今の名称は違うかもしれない。今後も村の名前が現在の地図等で示されるものと異なる場合があるが、私は自分の地図と村人たちに聞いた名前で表記することにする。

道はケルミまでと変わらず、カルナリ川の左岸の崖を縫って続いていた。標高も特に上がるわけではなく、上ったり下がったりで、トータルすればほぼ同じ標高を歩いたように思う。
前日の雨のおかげで、砂埃はだいぶおさまっていた。が、日に照らされればすぐに乾く土質で、歩くうちにだんだんとほこりっぽくもなってきた。

ケルミまではそれなりに道を歩く人に出会ったが、この日はほとんど出会わなかった。この親子はケルミからさほど遠くない場所ですれ違ったと思う。ケルミの村人だろうか。ちょっと畑まで行ってきました、という感じかもしれない。
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途中で一度、橋を渡った。カルナリ川ではない。そこに合流する支流だ。その直後に見えた雪山。街道からは南に見えた。7031mのサイパルかと思うが、わからない、自信は全然ない。考えてみるとヒマラヤの山中を歩いているにしては、雪山をほとんど拝んでいなかった。このあたりでこれが見えた後、また山とはしばらくお別れとなった。

この、橋を渡った直後から、この街道の旅で唯一と言っていいオアシスのような風景になった。緑の平原、その中央を流れる清冽な沢、感じのいい林が広がった。草原には花が咲き、蝶が舞っていた。

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その草原で、放牧に来たらしい子どもたちが火を起こしてお茶を作っていた。
またまた100年前の写真で悪しからず。

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これはちょっとマシ。男の子たち。虎刈りがかわいい。服のほころびなど今見ると、繕ってあげたくなってしまう。
この子どもたちの話す言葉は、それほど離れていないシミコットに住むダル君にもまったくわからないそうだった。チベット語を話していたのかもしれない。

さて。
この少し先の樹林の中で、3つ目の大きな出来事が私を待っていた。
それは、歩いてきた。この街道を、西から。
東から西に向かって歩く私とは、正面衝突したわけだ。
それ、とは、人間だった。
しかも、ここにいてはいけない人間。
白人だった。
許可証など持っていなかった。ケルミまでの許可証すら。
そしてあろうことかこの白人は、中国側のプランまで行って追い返されてきた、と語った。
チェックポストは普通に歩いてクリアしたとのたまった。
「中国語ができるんなら、カイラスなんてもうすぐそこよ!」
たいして荷物を持っていない白人2人は、そう私を励まして歩き去っていった。

この白人に出会うまで、私の気持ちの中には国境を突破してカイラスまで行くという野望は、ほんの1%あるかないかだった。ムチュまで行ってチェックポストでボスたちと再会を喜び、じゃあまたねと東に戻るつもりだった。もちろんそこで「もうちょっと先まで行っちゃダメ?」と聞こうとは思っていたが、それがかなえられるとは思っていなかった。だから戻るつもりだった。
それが、揺らいだ。
行けるんじゃないか。
初めてそう思った。
国境を越えることができたら、その先、何とかすることができるかもしれない、と思った。
なぜなら私は日本人であり、漢字の読み書きができ、中国語もわずかだが話すことができる。少なくとも私は、中国語で「主張している」フリができる。何事かを「伝えようとしている」ことを相手にわからせることができる。
これは・・・・・・。
行けるかもしれない。
私の頭の中で、悪魔がささやきはじめていた。正直、傾いていた。だが、大きな障害がこの先に待っている。ムチュのチェックポストである。

さて、悪人と善人の戦いはともかくとして、西へ歩かなければヤンガル村にも到着しない。私はダル君の背中を追いかけて、またひとつ橋を越え、再び断崖に穿たれた道を進んでいった。

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ヤンガル村(だと思われる。確かではない。違ったらご容赦)
おそらく翌日、村を振り返って撮ったと思われる。ヤンガル村も左岸にある。
家々は積み重なるように建っている。ダル君が泊まる場所を見つけてくれた。電気技師の家の屋上。ここにテントを張った。英語のできる技師さんは、純朴な社会主義者だった。もし今も生きていれば、ネパール共産党のどこかの派の幹部になっているだろう。

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薪を運んできた少女。

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村の中を歩いていてチベット犬に吠え立てられたとき、助けてくれた兄弟。

さて、この先どうなるのか。道はなお西へ続く。
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by himalaya3 | 2007-09-09 22:19 | 西北ネパール~カイラス1992

奇跡のはじまり

パーミットの限界地点だったケルミ村で私に起きた奇跡の話をそろそろしませう。と思ったが、その前に、なぜ私がこの旅に出かけたかというあたりがすっぽり抜けているので、まずはそのあたりから。

1988年に旅を始めた時から、私の目的地はカイラスだった。ところがチベットは対外未開放の政策を取り続け、なかなか入るチャンスがなく、91年にようやくラサには足を踏み入れたもののその先へは行けず、カトマンズに抜けた。そのとき小耳に挟んだのが、西北ネパール、シミコットの北にある峠からカイラスが遠望できる、という話だった。
当時、カイラスにどうしても行こうとすれば、ラサから車をチャーターして行くくらいしか方法はなかったのだが、それには抵抗があった。何日も、小さな車に何人もで詰め込まれて走るなど、自分には無理だと思ったのだ。精神的にどうこうというより、体力的に真っ先に脱落し、人々に迷惑をかけるのがいやだった。
だから、カイラスは行きたいけれど、行けないかもしれないな、と、半ばあきらめていた私に、「カイラスを遠望できるネパールの峠」は、実に魅力的に聞こえた。トレッキングの経験は何度もある。その途上で小さくてもカイラスが見えるのなら、自分にはそのあたりが分相応かもしれない、そう思った。

それなりに情報の収集もしたけれど、正確なものは何一つないまま、翌92年5月にカトマンズ入り。ケルミまでの許可証を手に歩き始めたのは、前述のとおりだ。

さて、ケルミ村で1泊し、温泉見物などをすませた私は、引き返すつもりでいた。引き返し、シミコットを通過してはるか南のムグ郡へ歩いてみようかと思っていた。
カイラスが見える峠というのがどこのことだかわからず、カルナリ川を逸れて北へ向かうルートはもう許可証の範囲を超えてしまっている。そうするよりほかに道はなかった。

その夜、ダル君と一緒に米を炊いていると、一緒に泊まっている役人さんたちが「野生獣の肉」を差し入れてくれた。何の肉だったのだろう・・・?
それを食べた後、焚き火の周りに皆が集まり、おしゃべりが始まった。電気のない室内に炎が揺れ、人の影が壁に揺れる。ネパール語をほとんど話せない私には、彼らの会話は音楽にしか聞こえず、眠っているような起きているような、ふわふわした時間を過ごしていた。だから突然、
「ムチュまで行くか?」
と聞かれた時、それが英語であり、私に聞いているのだとはわからなかった。ムチュはケルミからさらにカルナリ川に沿って西進した地点にある村だ。私の足では2日はかかるだろう。
聞いていたのは若い役人だった。
「行きたいけど、許可がないので行けません」
そう答える私に、年かさの髭をはやした人が言った。
「ムチュまでなら行っていいよ。なんなら明日、一緒に行こう」
「でも、ここまでしか・・・」
躊躇する私を、皆が笑って見ていた。そして若い役人が言ったのだ。
「この人は、ムチュのチェックポストのボスなんだよ」
驚いている私に、そのボスが重ねる。
「私がいいと言えばいいんだ。明日、出発しよう」
話はそれで終わり、またネパール語が飛び交う世界に戻った。いま聞いたことが夢なのか現実なのか、いや夢ではない、私は明日、西に向かって歩き出せるのだ、そうはっきりと認識したのはどこでだったろう。もう記憶がない。
火が落ちて皆が寝静まり、深夜、トイレに立つと降るような星空だった。カルナリ川のごうごうという音だけが響く校庭で、私は立ち尽くした。星明りにぼんやりと、明日進んで行く道が見えるような気がした。

翌朝、起きると雨がざーざー降っていた。合羽に身を包んだ役人さんたちは、「道が危ないから後から来なさい」と言い置いて出発していった。
これが2つ目の奇跡、というかターニングポイントになった。もちろん後から考えれば、の話だが。
ケルミ村でムチュのボス(つまりは警察官僚か、軍の幹部だろう)に会わなければ、また、会っても彼らが「ムチュまでおいで」とうっかり言わなければ、私が西進することはなかった。
そして、もしあの朝が晴れていて、私が彼らと行動を共にしていたら、多分私はムチュで引き返さざるをえなかっただろうと思う。

さて、そんなわけで、私は西へ進むことになった。カイラスどころか国境さえ、いやムチュでさえ、はるか彼方に思える地ではあったが。
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by himalaya3 | 2007-09-03 21:07 | 西北ネパール~カイラス1992

ケルミの温泉(2) 1992西北ネパール

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温泉のすこし下から見上げると、こんな風に沢から湯気がたってみえる。これがケルミの温泉だ。少なくとも、1992年はこんな感じだった。

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最初に出合ったひと。
湯治中の地元の人だったが、地面に寝ていたので驚いた。もしかすると、このあたりは全体的に地熱があって温かいのかもしれない。よく覚えていないのだが・・・。

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100年前の写真、再び。
カメラが壊れていたので悪しからず。
温泉のど真ん中で(と言っても湯船があるわけでなし、はなはだ実感に乏しいが)、保健師さんに言われて記念撮影。後ろで立っているヒゲの人が保健師さん。彼は家族計画や伝染病予防などの啓蒙活動のため、この地域を回っていた。

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シミコットの本村から湯治に来ているという現地の人々。粗末な布テントに大勢で寝泊りしているようだった。女性ばかりで男はわずかに1人だけ。どこかに食料の調達にでも行っていたなら話は別だが。
上の集合写真にも、年配の女性が多く写っている。これを書いている時点で、撮影から15年と3ヶ月。すでに転生した方も複数あるかと思われる。

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沢沿いにケルミ村に向けて下っていくと、こんな小屋が。保健師さんとダル君が覗き込んでいる。なんだなんだ?

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沢の流れで水車を回し、小屋の中で粉を轢いていた。おそらく、間違いなく、そば粉。石臼の番をしていたのは、小さな女の子だった。
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by himalaya3 | 2007-08-27 22:11 | 西北ネパール~カイラス1992