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ルアンプラバーン(ラオス)1995

初めてラオスに入ったのは1995年。5月だったか6月だったか。なにしろ雨季だった。

2007年の今、ラオスはビザなしで入れるようになっている。たしか2週間までの観光なら。
1995年当時、ラオスのビザは個人では取れなかった。大使館に電話すると怪しげな旅行社を教えられ、そこに電話すると怪しげな華僑が電話口でツアーを勧め、さらにはファックスで大量のツアー・パンフレットを送りつけてきた。その理不尽に耐えてそこにビザを頼むと、裏ルートでビザを取ってくれるのだ。たしか2万はしたと思う。
同じようにして取ったベトナムビザも2万はした。おまけに入国するときに不備が見つかり、大枚はたいて「修正」させられた。フランス語だから読めなかったのだ、何も。
そのときの私は、バンコクから香港まで陸路で抜けた。当時はまだ、それができるという情報はどこにもなかった。特にラオス~ベトナム間の陸路のボーダーが通れるかどうかがミソだった。
結局成功したのだが、その1年くらい後だろうか、猿岩石が逆ルートをやったときにはかなりガックリきたものだ。

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ルアンプラバーンから歩いても行ける織物の村で、織っている家に入り込んだときの子供たち。多分ここの子たちなんだろうけど、別の家の子も混じっているかも。

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子供たちのお姉さんだと思うが、ちょうど私が家に上がりこんで彼女の手元を撮った次の瞬間、やおら織るのをやめて立ち上がり、でっかいハサミを持ってきて、機にぴんと張られている布をバサバサ切り始めた。びっくりしたが、何ともすばらしいタイミングで、織りあがったのだ。
彼女の笑顔には、織りあがったうれしさと一緒に、「このすばらしいタイミングで織りあがった」ことへの満足感と期待感と幸福感みたいなものが一緒くたになっている。
もちろん買いましたとも。
彼女の笑顔を曇らせるようなことが、出来ようはずがない。

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駄菓子屋のようなカフェ(!)のような・・・、の店先。
なんだかやたらと雨ばかり降っていた記憶がある。ビエンチャンで宿泊していたポンティープ・ゲストハウスの前の道はいつもくるぶしまで来る水溜りになっていたし、ルアンプラバンでも雨の中でたけのこ売りが立っていたり、カッパを着たおじさんが自転車リキシャを漕いでいる光景を覚えている。
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by himalaya3 | 2007-05-25 21:57 | ラオス1995

飯屋

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トルファンのバザールの中にあった麺の屋台。
水を加えて練った小麦粉を、両手で伸ばしてたたみ、伸ばしてたたみ、1本が2本に、2本が4本に、4本が8本に、8本が16本に・・・・・・、と細い麺に仕上げていく。
これがいわゆる、拉麺(ラーミェン)なんだろうか。多分そうだと思うが。
この麺を茹でて、水に放す。それを皿に盛って、上に野菜や肉を炒めたものをぶっかける。あるいは、唐辛子醤油のようなものをかけて食べる。この屋台では、後者を売っていたと思う。
このおばあさんは何を待っているのだろうか。
茹でない麺を買って帰るところなのだろうか。

ところで、私はこの旅の間、一度もこの麺を食べなかった。
麺をさらす水は、どこかの水路で汲んだもの。それをロバ車がドラム缶で運んでくる。
皿を洗うのは大きな洗面器に張られた汚れた水。
その皿を拭くのは、雑巾としか思えない真っ黒に汚れたボロきれ。
食うほうが間違ってる。
もっとも、食堂の裏側だって、どこも似たりよったりではあったのだが。

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こちらはカシュガルの飯屋。場所は・・・・・・、忘れた。たぶん日曜市場の中ではないかと。
サフランで色付けしたピラフのようなものに、羊肉がのっかっている。1皿2元とか、1元5角とか、そんなものだったと思う。1元ではさすがに、これは買えない(と思う)。
そうだ、思い出した。
この直前に、カシュガルに向かうバスで途中まで一緒だったアメリカ人2人に再会し、一緒にここへ来たのだった。言葉ができず、漢字も読めないアメリカ人を案内する形になったわけだが、ウイグル人たちは私を漢族と思ったようだ。皿を渡してもらう順番を待っているとき、店の男が私の足を踏んづけてきた。間違えて、ではない。わざとである。そして、足をどけない。ニヤニヤ私の顔を正面から眺めながら、いつまでも踏んづけている。
周囲のウイグル人たちも、私がどうするのかと、面白そうに眺めていた。
様子に気づいたアメリカ人が英語で何か言うのと同時に、私も
「私は日本人だから!」
と言うと、「おっと」と今気づいたように足をどけたが、おそらく彼は私の言葉を理解したわけではなかっただろう。

町を歩いていても、時折刺すような敵意のこもった視線を受けることがあった。白人と一緒にいても、私が1人でいても。
この頃はまだ新疆ではたびたび独立を求める動きがあったのだ。

数年前にテレビでカシュガルの現在を見た。
入場料を払って入る旧市街。そこはかつて旅行者が自由に歩き回れた町だ。私もその路地を迷子になりながら日差しにあぶられながら野良犬と一緒に歩いたものだ。
今のその町には、漢族のツアー客を家に招き入れ、娘にウイグルダンスを披露させて収入を得る家族がいる。ビデオカメラやデジタルカメラが娘を執拗に追い回す。帰り際、太った漢族の男が、小さな娘の手にチップの10元札を握らせる。その横には、男にしきりに頭を下げる父親がいる。
テレビカメラが見た町と、私がそこに行って見る町は、もちろん違うだろう。私はそんな風景を見ないかもしれない、見ないですむかもしれない。
それでも、ほんの十数年前に、白人を案内して歩く生意気な漢族小娘の足を笑いながら悪意をこめて踏んづけたウイグル人は、いったいどこへ行ってしまったのかと思うと、胸の中をすうすうと風が吹き抜けるような気がした。

私の足を踏んづけて笑ったあの男は、今どうしているのだろうか。
私が再びこの町に行くことがあったなら、また踏んづけに来いよ、体当たりして来いよと、言いたい気分もちょっとだけある。変な話だが。
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by himalaya3 | 2007-05-14 22:00 | 中国シルクロード・1988

カシュガル1988年6月 (2) 

チムニバ賓館の鉄扉は夜にはぴたりと閉ざされる。真夜中の1時近い時間にそこで下ろされた私は必死にその扉を叩き、大声で「すいませーん! ハロー! ニイハオー!」と叫んだのだが、誰も門を開けてくれなかった。このままここで夜明かしか・・・、と思ってあきらめて、10分ほど座り込んでいたところに、ロバ車が通りかかった。この御者の少年はいいヤツで、私の状況をすぐに飲み込むと、ひらりと鉄扉によじ登り、どこかからか門番を連れてきてくれた。
おかげで私はなんとか野宿を免れたのだが、この少年の写真も撮っていないのだ、後で気がつけば。

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そうして転がり込んだのが4人部屋の1ベッド。ほかのベッドにはオーストラリアからの3人組(男・女・女)がいた。1ベッド4元。
帰国後、この写真を見た友人は、
「オマエ、何やったんだよ・・・・・・」
「え、何って、なに?」
「これ、留置場じゃないのかよ」
うーん・・・・・・。
たしかに、留置場ではないにしても(鉄格子もないし)、これがホテルの部屋だとはちょっと信じ難いか。
チムニバ賓館(チニバクと言う人もいて、未だにどっちかわからない)のこの部屋は平屋の長屋づくり。トイレは歩いて3分ほどかかる遠くにあった。
当時、パキスタン国境へ向かうバスは、ここから出発していた。たしか曜日が決まっていて、その時間に見に行くと、屋根の上に家電製品を山積みにして、パキスタン人たちが帰っていくのだった。
パキスタン人たちは別の棟に固まって泊まっていたが、コンロを持ち込んで自炊していたようだ。前を通りかかるとよくチャイをご馳走してくれた。ご飯時に通りかかってご飯を振る舞われたときは、後で同室のオーストラリア人に「知らない人にご飯を振る舞われてはいけません」と説教されたなあ。

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前後するが、トルファンからカシュガルへ向かったバスがこれ。これと言っても、ずいぶん遠くに写っているのだが。どこかの集落で、食事休憩をしたところだと思う。
道路は舗装工事の真っ最中。つまり、まだ全線舗装はされてはいなかったのだと思う。ちょっと記憶が定かではないのだが。
大掛かりな工事をしている箇所では、堤防のように砂漠から盛り上げた道路から下り、道なき砂漠を数百メートル、もしくは数キロに渡って進み、また堤防に戻る。その繰り返し。川には橋がなく、そのままズバズバと水をかきわけて前進した。
今はカシュガルまで鉄道が通り、陸路もずいぶんよくなったらしい。
2度とやりたくない、とその時は思ったが、今になってしまえば、やりたくとも2度とできない、のである、こんな旅は。
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by himalaya3 | 2007-05-12 23:01 | 中国シルクロード・1988

カシュガル1988年6月



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1988年、まだ天安門事件も起きる前の中国の最果て、カシュガルの日曜バザール。
6月の初めだっただろうか。
暑いはずなのに、男たちがなぜこんなに厚着なのか・・・。

カシュガルの前に滞在したトルファンでは、連日気温は40度を突破し、地元の人たちも旅人も、みんなブドウ棚の下にだらだら居座って、葡萄酒やら汽水やら飲んでいた。この頃はまだミネラルウォーターなど、普通には売っていなかった。
ときどき大きなツアーがやってくると、夜、ぶどう棚の下ではウイグルダンスの宴が催され、私のような個人旅行者も紛れて見物することができた。

トルファンからカシュガルへは、2泊3日のバス路線しかなかった。
そのバスのチケットを買うのが一仕事。
当時はまだ「外貨兌換券」が存在し、列車や飛行機には「外人料金」が存在した。バスには外人料金がないハズだったが、トルファンのロバ小屋のようなチケット売り場では、ウイグル人のオヤジが「兌換券での外人料金」を請求し、連日旅行者たちと熱い戦いを繰り広げていた。
粘りに粘って、最後は人民元をカウンターに叩きつけるようにしてチケットを手に入れたのは、並び始めてから確実に2時間は経過した後だった(と思う)。

ベンチシート1列5人がけのバスはうんざりするほどボロで、よく故障した。夜明け前に出発し、その日の宿泊地に着くのは深夜11時前後。バス駅の旅社の汚いベッドで短い睡眠をむさぼり、また夜明け前にはバスの扉の前に集まる。
北京時間、北京夏時間、新疆時間、という3つの時間にも振り回された。扉の前で運転手が来るのを1時間待った朝もあった。
太陽にあぶられれば地獄のような暑さとなり、スコールがくればたちまち砂漠が濁流となった。村の停留所で下りて休めば、黒山の人だかりができた。スカーフをかぶった小さな女の子が、あやとりをしようと誘った。軒下で豆をむいている母親が、心配そうにちらちらとこちらを見ていた。
乗客は次々に変わり、太ったウイグルのおばさんが隣に来れば、こちらの尻は半分以上通路にはみ出した。赤や青に染めたゆで卵を山に積み上げて売っているのを、この太った隣人は何度となく買っては私にもくれた。

カシュガルにバスが滑り込んだのは、3日目の夜12時過ぎ。
全身砂だらけで疲れ果て、最後に隣に座った初老の男性に誘われるまま同じロバ車に乗り、「いちばん安い宿」と連呼して町外れのチムニバ賓館に行ってもらった。この男性はどこに行くところだったのか、私を乗せて遠回りになりはしなかったか。3元と決めて乗ったのだから私の払い分は1元5角。しかし男性は頑として受け取らず、私を賓館の鉄扉の前に残して走り去っていってしまった。
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by himalaya3 | 2007-05-12 01:21 | 中国シルクロード・1988

再スタートします

ヤマネのブログにようこそ。
ここは以前、「軽井沢森暮らし日記」という名前のブログでした。
今、この森暮らし日記は別サイトで運営しています。

長く休眠状態にあったこちらのスペースを、新しい名前で再開することにしました。
題して「Travelling Days」。
どこにでもありそうなタイトルですが・・・(笑)。

1988年、昭和の最後の年に旅を始め、多いときは年間の半分近く、少なくなった今でも年間1ヶ月近くは旅の空の下に棲んできました。
発表した旅もありますが、ほとんどの旅はその機会もなく、記憶の中に埋もれていくばかりです。
きちんとサイトでまとめようともしましたが、なかなか先に進まず・・・。

写真を頼りに記憶をたどっていくことならできるかも、と、思い立ちました。

あまり系統立てていくつもりはありません。
場所も時間も飛びながら、作ってみようかと思います。
よろしければ、ときどき覗いてやってください。
よろしくお願いします!

ヤマネ記す

付記:)
2007年8月下旬から、このブログはFC2でも公開しています。両方まったく同じ内容ですが、エキサイトが新しい記事から表示されるのに対し、FC2は古い記事から表示されます。どうでもいいようなことですが、私個人としては、<次へ>で過去の記事に戻るというのが何か気になるので・・・(笑)
更新記事のチェックならエキサイト、過去のカテゴリをまとめて見るときはFC2、だと便利かなと思います。
2007/08/31 by yamane
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by himalaya3 | 2007-05-12 01:02 | ごあいさつ