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ケルミの温泉(2) 1992西北ネパール

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温泉のすこし下から見上げると、こんな風に沢から湯気がたってみえる。これがケルミの温泉だ。少なくとも、1992年はこんな感じだった。

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最初に出合ったひと。
湯治中の地元の人だったが、地面に寝ていたので驚いた。もしかすると、このあたりは全体的に地熱があって温かいのかもしれない。よく覚えていないのだが・・・。

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100年前の写真、再び。
カメラが壊れていたので悪しからず。
温泉のど真ん中で(と言っても湯船があるわけでなし、はなはだ実感に乏しいが)、保健師さんに言われて記念撮影。後ろで立っているヒゲの人が保健師さん。彼は家族計画や伝染病予防などの啓蒙活動のため、この地域を回っていた。

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シミコットの本村から湯治に来ているという現地の人々。粗末な布テントに大勢で寝泊りしているようだった。女性ばかりで男はわずかに1人だけ。どこかに食料の調達にでも行っていたなら話は別だが。
上の集合写真にも、年配の女性が多く写っている。これを書いている時点で、撮影から15年と3ヶ月。すでに転生した方も複数あるかと思われる。

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沢沿いにケルミ村に向けて下っていくと、こんな小屋が。保健師さんとダル君が覗き込んでいる。なんだなんだ?

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沢の流れで水車を回し、小屋の中で粉を轢いていた。おそらく、間違いなく、そば粉。石臼の番をしていたのは、小さな女の子だった。
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by himalaya3 | 2007-08-27 22:11 | 西北ネパール~カイラス1992

ケルミの温泉とゴンパ  1992西北ネパール

ケルミ村小学校校庭で一夜を明かし、皆に勧められてテントを室内に移した。それからダル君の作ったチャパティを食べ、校庭で皆で記念撮影をし、西へ発っていく男たちを見送り、それから保健師さん2人に連れられ、村の上にあるゴンパに行った。

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ピントが来ていないし、おまけに露出も合ってない、というかカメラが壊れていたのだった。申し訳ありません、我慢してください。
ケルミ村から30分ほど登ったか、いや、この日の私は筋肉痛でほとんど歩けなかったので、実際はすぐ近くかもしれない。
ダル君の通訳と、保健師さんの英語によると、このお坊さんはつい2年ほど前にチベットから亡命してきたそうだ。そしてこの村に来て、村人たちが寺を建てたか、荒れ寺になっていたのを修復したのか、そのどちらからしい。見たところ、それほど新しい建物とは見えなかったので、きっと後者だろう。ネパール国王のポスターが大きく貼ってあるのがなんとも言えない。

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たまたまゴンパに来ていた村の人たち。いちばん奥にいるのはダル君だ。
皆でバター茶のもてなしを受けているところ。もちろん私もご相伴にあずかり、この旅で最初のバター茶になった。
毛織の敷物に座るとき、まずいなと思ったのだが、さりとてどうすることもできず、ええい、ままよと座ったら、やはりダニに移られてしまった・・・・・・。このダニとは、この先チベットに入るまで、一緒だった。

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これはゴンパの前あたりで撮ったのだろうか。
この写真を見ると、ネパールの中部や東部の山岳民族よりも、アフガニスタンやパキスタンに近いような気がする。

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またまた露出が極端に不足している写真。
ゴンパを出てさらに上がっていくと、沢がお湯になり、温泉に着いた。
温泉といっても、日本のように湯船があってお湯に浸かるのではない。ここでは、お湯が流れる水路の上に小枝を束ねたものを渡しかけ、その上に人が座ったり寝たりして、上から毛布をかぶり、サウナのようにして利用していた。
後ろのテントは、湯治に来ていた人たちの野営場所。シミコットの本村からだと聞いた。女が圧倒的に多く、男は2人か3人。中にダル君の友人がたまたまいて、彼はうれしそうにずっと話し込んでいた。

温泉の写真は次回も続けます。
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by himalaya3 | 2007-08-18 21:06 | 西北ネパール~カイラス1992

ケルミ村へ 1992西北ネパール

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カルナリ河の左岸に続く、西へ向かう道。左岸ではあるけれど、下流から見上げれば向かって右側の岸、ということになる。川は常に自分の左を流れていた。
ようやく緑が萌え出てきた季節だったのだろうと思う。正直、その時にはそんなことを考えなどしなかった。いま思えば、赤道に近いとはいえ標高3000mを超える地では、5月半ばはまだ新緑の終わり頃なのだろう。

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鋭角に何度も切り返しながら、崖を登る。登ればしばらく平らな道になり、そのうちに次の襞にぶつかり、鋭角に切り返しながら崖を下り、登り返す。道はそんな風に、永遠とも思える繰り返しの中、続いていくのだった。
小さな人影が見える。多分、先行していたダル少年と、国境を越えようとしている行商の男たちだろう。私はいつも、ダル少年からはるかに遅れて歩いていた。

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お昼ごはんを食べている、行商の男たちとダル少年。
男たちは、クルと呼ぶ木のお椀をたくさん背負っていた。チベットで主食となるツァンパを食べるのに必須のものだ。「チベットでは木が採れないからね・・・」とダル君が言っていた。クルを売ったら、おそらく中国のズック靴や衣類などを買って帰ってくるのだろう。この男たちも、解放軍放出のズックを履いていた。
日記によると、ダラポリ村で買ったそば粉のパン、ファーフルを食べているのだそうだ。鍋も見えるが、お茶でも沸かしていたのだろうか。
私は多分、MSRストーブと格闘しながら、インスタントラーメンでも煮たのだろう。ファーフルもちょっと食べたかもしれない。

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この日の朝、パヤ村を歩き出してから10時間後、ようやくケルミ村が見えた。これがケルミ村じゃなかったら、ぐれてやろうと思った。
小高いところにある建物から街道に下りてくるところで、ダル君が待っていた。「ケルミだよ」と言われたときは、もう・・・・・・。

ケルミ村で初めて庭にテントを張った。一晩目は校庭で眠った。けっこう宿泊者がいたせいである。夜半に雨が降り、テントを叩く雨の音が大きいのに驚いた。
翌朝、行商の男たちが西へ向かうのを見送った。道は変わらずに続いているのに、自分はもう進むことができない。それがたまらなく寂しかったのをよく覚えている。
同宿の保健師さんが、「ケルミ村には温泉があるから、行ってみよう」と誘ってくれなければ、おそらく私は1泊でケルミ村を後にしただろうと思うのだ。国境へ向かえないのなら、シミコットまで戻って南下し、ムグ郡へ入ってみようかと考えていたから。でも、せっかく誘ってくれているのだし、それじゃもう1日ここにいようかと決めたことが、奇跡を招き寄せる最初のきっかけになった。その話はまた後で。

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100年前の写真みたいになってしまった。ニコンFGが反乱を起こし、フィルムが巻き取れなくなってにっちもさっちも行かなくなり、結局、裏蓋を開けざるを得なかったのだが、その時感光したのだろう。まったく・・・・・・。
ここはケルミ村の小学校の庭。この小学校に泊めてもらった。選挙休みで子どもたちもおらず、私たち以外にも行商の人や、役人さん、保健師さんなどが泊まっていた。もしかすると、学校がやっていても、ここはこうして人々の避難小屋的使われ方をしている場所なのかもしれない。
カメラを見ているのは、このとき同宿した人たち。こぎれいに見える人は役人さんだし、そうじゃないのは下働きの人や行商の人だろう。私の後ろにいるヒゲの人が、大恩人の保健師さんだ。

そんなわけで、ケルミ村到着翌日は停滞日となった。
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by himalaya3 | 2007-08-17 16:40 | 西北ネパール~カイラス1992

ダラポリ村 1992西北ネパール

シミコットを出てから2日目の午前中に、チェックポストのあるダラポリ村に着いた。
道は相変わらず崖に沿ってアップダウンを繰り返しながら、無数の襞を越えていく。襞にはたいてい沢が走っており、水の補給には困らなかった。

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日差しの感じから、宿泊したパヤ村を出てすぐにすれ違ったのだろうと思われる。身なりのきちんとした子ども、といった印象。もしかすると学校に通っているかもしれない。
「誰?」
とでも問うように、いつまでも私を見つめ続ける少年の瞳に、参った。嫌だったという意味ではない。気になり、不思議であればいつまでも見つめる、この正直さに、参ったのだ。

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こちらはダラポリ村に着いて、チェックポストの前で責任者のお出ましを待っていたときに、通りかかった村人だ。このあたりの平均的収入の村民、という感じがした。この時期のこのエリアでは、裸足の人がいてもまったく驚かなかった。隣村へ行くような時でもない限り、靴は大事にとっていたのではないかと思う。
よく見ると父親の後ろにサンダルばきの足が見えているが、これは幽霊ではなく、実際に人が1人背後に立っていたので、驚かれませんように。

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この女性も、村の道を歩いていた人。
低地っぽい顔つきと服装。流行を先取りしてヒョウ柄のブラウスを着ている・・・。
たとえばクーンブのシェルパ族や、アンナプルナのタカリーなどとはずいぶん異なる雰囲気だ。このあたり、標高は3000を越えているし、地形的にもこれ以上ないほど立派な山岳地域なのだが、低地・タライあたりの民族に近いものを感じることがしばしばあった。

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見事なハナタレ小僧少年。
父親に手を引かれてどこかに行く途中だった。
ダラポリは、この街道でいちばん賑やかな村だったように記憶している。もちろんシミコットはもっと賑やかだろうけれど。

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村の民家はこんな感じ。屋上で作物を干したりできるようになっていた。きっと雨は少ないエリアなんだろう。屋上がある建物は、チベット的と言えなくもない(と思うが確信があるわけではない)。

ダラポリのチェックポストでは、許可地域の延長を願い出てみたのだが、結果は「NO」だった。
「その先に行ったら俺の首が飛ぶ!」
責任者はそう私を脅すのだった。
責任者が来る前には下っ端たちに、来た後はお偉いさんたちにも煙草を配って懐柔しようとしたのだが、ぜんぜん効き目はなかった。当たり前だ・・・。

結局、ケルミまでという許可は変わらず、また歩き出した。この日、ケルミに着くはずなのだが、道は遠く・・・、歩いても歩いてもどこにも着かず、ダル少年の姿もなく、すれ違う人もいない細い街道を、ただひたすらに歩いていくのだった。
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by himalaya3 | 2007-08-12 20:09 | 西北ネパール~カイラス1992

シミコットの西(2) 1992年5月西北ネパール

西へ延びる道は乾季のせいでカラカラに乾き、土ぼこりとの戦いでもあった。風も強かった。登ったり下りたり、崖に沿ったり逸れたり。1本道なので迷う心配はなかった。

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崖の下をカルナリ川が流れている。道はその崖の中腹を縫って続いていた。時にはかなり水面近くまで下ることもあったが。
集落は道に沿ってごく小さなものがあるだけだ。この女性は崖の下から水を汲んで上がってきたところ。もしかして川そのものまで下らなければ、水は得られないのかもしれない。だとすれば大変な距離であり高低差だ。
このあたりで標高はほぼ3000メートル。

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数頭のヤギを追っていた老婆と孫たち。
山岳地帯に住んでいるが、民族的にはどこに属するのだろうか。服装や装飾品を見ると、低地の民族にも通じるものがあるような気がする。

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荒れた何も植わっていない畑にいた男性。煙草を吸っている。もしかすると煙草ではないかもしれない。大麻など、ネパールの山中では雑草なのだから。
鍬のようなものを抱えているが、近くにそれを引く動物がいた記憶はない。どこかからか、動物が来るのを待っていたのだろうか。

1日目の宿泊地となったパヤ(たぶん)には、日も傾いてから到着し、茶屋のような店で夕食を作ってもらい、泊めてもらった。
ここでサイパル・ヒマールのベースキャンプから下りてきた西洋人に出会う。サイパルはこの街道の南にある7000m級の地味な山である。登山中に事故が起き、救援要請をしに行く途中だとかで、慌しく下りて行った。「ここから先は自分たちのように特別な許可を得た者しか行けない。進んでも次の村で逮捕されるだけだから早く帰れ」と言い残して。
彼の言うことは半分正しく、半分正しくない。
確かに、特別許可がない限り、ケルミより先に進むことはできない。ただし、ケルミはまだ先である。パヤの次にはダラポリがあり、その次がケルミだ。ダラポリにはチェックポストがあるはずだが、私はケルミまでの許可は持っているのだから、「次の村で逮捕される」ことはない。

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パヤで出会った村人たち。
ちょうどこの時、選挙が行われていた。ダル君も選挙休みでアルバイトに来てくれたのだ。
真ん中にいるのが候補者。支持者と村人が候補者を囲んでいる。なぜ彼らの写真を撮ることになったのか、まるで覚えていないのだが・・・。もしかすると、撮ってくれと言われたのかもしれない。
それにしても、険しい顔の人々だ。
貧困にあえぐ国ネパールにあって、ここ西北部は最貧地域だろう。このエリアにはトレッカーが好む山もないし、平らな土地すらほとんどないのだ。わずかの土地を耕し、わずかの家畜を飼う。自給自足といえば日本では聞こえがいいが、この国の実情は、それ以外どうしようもないからそうしているに過ぎないのだ。
後にこのエリアが共産主義者の活動エリアになっていくのも、よくわかる気がする。私はネパールのマオイストに与するものではないが、社会主義に救いを求めようとする住民の追い詰められようは、わずかなりとも理解しているつもりだ。

さて、道はまだまだ、険しい谷を進む。

※このあたり、写真の撮影日時が前後したりしています。出版されている本と違うことに気づかれる方もあるかもしれませんが、お許しください・・・・・・。
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by himalaya3 | 2007-08-10 21:01 | 西北ネパール~カイラス1992

シミコット・西北ネパール 1992年5月

1992年の西北ネパールからチベット・カイラス山への旅は、何度思い返しても不思議な旅だ。
今でも、自分があの旅をした、あの道を歩きとおしたということが信じられない。それをしたのは自分ではないような感覚。
地図上の空白地帯だった西北ネパールから、ヒマラヤを越え、開いていない国境を越えてチベットへ。まさかできるとは思っていなかった。その反面、不思議と行けるような気もしていた。いったいどっちなんだと言われてしまいそうだが。それほど現実味のない計画だったということだけは確かだろう。
月並みな言い方をすれば、私はこの旅で人生が変わった。
のだろうと思う。
でも、実際のところ、変わったのは外側だけ、つまり職業とか周囲の自分に対する目とか、そんなものだけだ、という気持ちも同時にある。
私は幸運だった。この旅に出る1年半ほど前に出版の世界に遊びで(たった3ヶ月の編集助手アルバイトをほかに何と言えばいいのだろう?)片足突っ込んでおり、その後も何となくその業界の端っこで飯が食えた。このカイラスの旅の後、唯一写真を持ち込んだのがこのときの出版社だった。雑誌に持ち込んだのだが断られ、「ほんじゃいいや」とそれっきりにしていたのを別の人に発掘してもらい、本として日の目を見ることになった。
最初のまともな署名原稿が単行本だった、という点で、私はかなり幸運なライターだった。
その幸運を生かしきれなかったのは、私にその才も力も、本当の意味ではなかったからなんだろう。

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カイラスまでカバーできていないのですが、一応この辺りという目安に。お手持ちの地図などで補完してください。緑の実線が飛行機、赤の破線が徒歩、チベットに入ってからのプラン以北、北上していくルートはトラックです。

旅立ったのは1992年の5月半ばだった。
日本からバンコクを経由してカトマンズへ。中国ビザは、日本でトラブルがあって結局取れなかった。かなり怪しい招聘状だけはあったが、そこに「日本で取得すること」と明記されている以上、ただの紙くずと言えそうだった。
カトマンズで西北ネパール・フムラ地区のパーミットを申請した。係官は私をわざわざ別室に呼びつけ、壁に張られた巨大な地図を見せながら、中国との国境まであまりに近いので、許可された村から先へは絶対に行かないように、と、くどいほど念を押した。
この時、まだフムラ地区は通常のパーミット(*1)でケルミ村までは行けた。この翌年、このルートはカイラス観光ルートとして正式に開かれ、パーミット代が跳ね上がることになる。でもそれは私のせいではない(と思う)。

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カトマンズから酷暑のネパールガンジ(夜中に何度ぬるい水を浴びたかしれず、それでもまったく眠れなかった)を経由してシミコットへ飛行機で飛んだ。シミコットへ陸路で行こうとすると、多分ララ湖のあたりから、10日ほどかかるのではないかと思う(確かではない)。
シミコットの村は宿も食堂もなく、今まで見てきたどのエリアの村よりも、格段に貧しかった。その村の様子が上の写真だ。建物はほとんどもたれあって辛うじて立っているように見える。
私はネパールガンジの空港で乗りそこなった乗客から託された食料品を届けに、村で唯一の商店(のようなもの)に行き、届け物をしてあげたというわずかな恩を着せて(というか他に方法が見当たらず)、ポーターを手配してくれるよう頼んだ。何しろこの時の私は、テント、寝袋、灯油コンロ、水、米、小麦粉、缶詰・・・・・・、なども持っていたのであり、とても1人では運べなかった。2時間ほど待って都合がついたのは、14歳の少年、ダル君だった。
ダル君に60リットルを背負ってもらい、私は30リットルのサブザックにカメラやら詰め込み、歩き出した。ともかくも、西へ。

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村はずれの水場。女たちが服を洗ったり、髪を洗ったりしていた。煮炊きをしている煙も見える。

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最初に出会った一団。シミコットから飛行機に乗るのだろうか。それともシミコットが目的地なのか。言葉もわからず、ただ出あってすれ違って別れた。

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まだ村はずれからいくらも歩いていない。
山の上から村に向かって下りてきた少女。
すれ違い、数歩歩いてから立ち止まり、いつまでも私を見つめていた。あまり見つめるので、写させてもらったが、カメラなんて初めて見たのか、終始きょとんとしていた。

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馬に乗った人も下りて来た。
この街道では、時々こうして馬上にいる人を見かけた。
どこから来たのか・・・・・・。

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忘れられない一家の写真。
国境に近い村からシミコットめざして歩いていた家族だ。たまたま同じ場所で休み、ダル少年がなんとなく通訳してくれたのだ。
最初頑強に写真を嫌がったお父さんだが、ダライラマの絵葉書をあげると大層よろこんで、全員で写真を撮らせてくれた。
その後で、こう言うのだ。
「あんた、カトマンズの人だろう。この長男坊を連れていってくれないか」
「私は外国人だよ。カトマンズに戻るかどうかもよくわからない」
「それでもいつかは戻るだろう?」
「それは多分そうだろうけど」
「頼む、連れていってくれ。頼む」
乳飲み子を抱いた母親は何も言わない。まだ小さい弟も妹も、何も言わない。長男坊もまた無言だ。
まさか子どもを預かるわけにはいかない。カトマンズまで仮に連れて行ったとして、それからどうするのだ。
父親はがっかりしたようだったが、少しして一家は何事もなかったようにシミコットに向けて去っていった。彼らはいったい、どこに向かっていたのだろう。どんな理由のある移動だったのだろう。このエリアにいるにしてはいささか濃い顔の父親と、わずかながらウイグルあたりの血が混じっていそうな長男坊の顔は、今も、いつでも脳裏に思い浮かべることができる。

シミコットから歩き出してまだ数時間。国境も、許可された最終地点ケルミ村も、まだはるか先だ。

*1 通常のパーミットとは、個人で行ってよいというパーミットである。この時点でたしかムスタンやドルポなどは特別パーミットが必要になっていたと思う。この特別パーミットは個人では取得できず、旅行代理店を通じてガイド・コック・ポーターを雇い、燃料も持ち込みむ義務があったと記憶している。つまりパッケージツアーになるわけだ。政府からの監視役としてリエゾン・オフィサーと呼ばれる人(通常は警察官)が同行する必要もある。当然、かなり高額な費用が必要となるのだが、ギリギリこの年まで、フムラ地区はこの対象外になっていたのである。
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by himalaya3 | 2007-08-07 18:39 | 西北ネパール~カイラス1992