<   2007年 09月 ( 5 )   > この月の画像一覧

チベットの道とプラン(普蘭)

科加~普蘭間の道
b0033537_15365680.jpg


チャン・ラを登っているときにすれ違ったカトマンズからの巡礼の話では、国境を越えたシアルからタクシー(!)があって、それを使えばカイラスまで1日だ、とのことだった。半信半疑で(というか95%は疑って)シアル村に行ったのだが、やはりタクシーなんぞはいなかった。それでも車道があり、車が時々は通っているらしく轍も残っていたので、すこし安心した。何しろネパール側は車はおろか馬さえ危険と思われるような、細い山道しかなかったのだ。

シアルから次のコジャ(科加)までは数時間。ここで1泊(ゴンパで)。
そこから普蘭まではおよそ30kmと聞いており、車に乗りたかったが、残念ながらそのようなものは影も形もなく、村の雰囲気もよくなかったので歩くことにした。工事現場の人たちが、「3時間だ」と言ったのも歩くきっかけとなった。

石と砂礫混じりのだだっ広い大地に、あるところははっきりと、別のあるところは微かに、車の通った痕がある。これを辿りながら、ただただ歩いていった。
左手はるかにカルナリ川が流れている。時々、水の音が聞こえるほどに近づいたりもしたが、大抵はキラキラ光っているのでそこが流れだとわかる程度に離れていた。最悪、そこまで行けば水が得られると思いつつも、場所によってはキロ単位で離れてしまうので、やはり水は持って歩かなければ不安だった。

テント、シュラフ、最低限の着替え、薬品や小物、コンロ、コッヘル(簡易鍋)、灯油のボトル、わずかの食料、カメラ、フィルム。この装備だけでザックは満杯であり、重量はほぼ20㎏。これに常時水を2リットルほど持っていたので、しめて22㎏。
1日に食べられるのは、インスタントラーメン1.5袋とわずかの米または小麦粉またはダルマート(ネパールの簡易食?)。毎食、インスタントラーメンの半分を煮て、そこに他のもの(大抵はすいとん状にした小麦粉)を加えて食べていた。たまに米を炊くこともあったが、それはごく稀なことだったと記憶している。
ネパールで買った灯油は水が混ざっていたのか不完全燃焼するばかりでコンロは使い物にならない日も多く、そんな時はそのへんに落ちている枝を拾い集めては燃やし、どうにかお湯を沸かして食いつないだ。

プランまでは実質10時間、休憩時間も含めると12時間以上かかった。荷物が重すぎたせいだろう。1時間に3キロ歩いたかどうか、というところだ、これでは。
結局、この日は1台の車も見かけなかった。向こうからも来なかったし、後ろからも抜かれなかった。それでも時折、遠くを走る車の音と巻き上げる砂煙を見かけたことがあった。道がどうなっているかわからず、あの車はここに向かってくるのではないかと思い、大地の凸凹に隠れてやり過ごそうとするのだが、それらの車は道のないところを走っていたのか、あるいは別の道があったのか、一度も私に近づいてくることはなかった。
体力も気力も尽きかけようとしたころに、遠くにプランの町であろうパラボラアンテナの反射光を見たときの感激は、まるで昨日のことのようだ。後にも先にも、あれほどの荷物を背負ったことはないし、あれだけ長時間にわたって歩き続けたことはない。

プランの町はずれに入ったところの民家で、おばあさんに手招きされ、バター茶をご馳走になった。このとき、チベット語を話すおばあさんと、チベット語を話さない私の間に立って通訳をしてくれた少年と、まさか次の年にまったく別の国の町で再会することになろうとは。この話はまた別の機会があれば。

b0033537_16141481.jpg

プランの町。
これは北のはずれだと思う。左手の斜面の上には解放軍の駐屯地があった。川の向こうに見えている比較的新しそうな建物は、税関などの政府の建物だった。国境警備隊の事務所や公安局やプラン賓館や銀行は、道なりにぐーっと左にカーブしていった先にあり、その向こうにプランの町、人々が暮らすエリアが広がっていた。
私が泊めてもらっていた解放軍の招待所は、おそらく、画面下に見えている道と川に挟まれたエリアにある建物のうちのどれかだと思われる。ちょっともう記憶が定かではないのだが。

b0033537_16173667.jpg

上の写真と同じような場所から撮っていると思うのだが、町に近づいているのか遠ざかっているのか、立っている場所も高くなっているのか低くなったのか、よくわからない。記憶が曖昧でまことに申し訳ない。
このあたりがヒッチ・ポイントで、毎朝暗いうちに起き出してここに行き、トラックが来ないか待っていた。ということは、解放軍の招待所からそう遠い場所ではないと思う。

プランでは6日間禁足となり、パスポートを公安に預けて(没収されたとも言うが)滞在していた。
何しろ私は公安の面々を相手に滔々といい加減な中国語をまくしたて、自分がここに来たのは正当な行為であり入国を許可されて然るべきである、という態度を貫いたので、彼らとしても単純に追い返すわけにもいかなかっただろうし、何より面白かったのではないか、と思う。
6日目に簡易裁判の判決が下ったとのことで、私は罰金刑を受けて入国を許可された。実際のところがどうだったのかは、私にはわからない。当時、こんな小さな案件で北京に連絡して裁判をして、などということをやっていたはずがない、とも思うが。いずれにしても私のパスポートには、かろうじて中国の入国スタンプが押され、ごくわずかだけ格好がついた。ビザはもっと北にある阿里という町で取れ、という話だった。
それからトラックが出るまでさらに3日待ち、プランに入って10日目にようやく巡礼トラックの荷台に混ぜてもらえることになり、町を離れることができた。
[PR]
by himalaya3 | 2007-09-24 16:38 | 西北ネパール~カイラス1992

国境 西北ネパール~西チベット(8)

b0033537_2232649.jpg


西北ネパールのフムラ郡シミコットから歩き始め、途中ムチュ村にある最後のチェックポストを夜明けに脱走して通り抜け、星明りを頼りに夜歩き、昼間は人目を避けてブッシュの中で幕営しながら、8日目にヒマラヤの峠を越えた。峠の名前は定かではないが、私が持っている地図によれば、チャン・ラだと思われる。
雪の降り積もる北側の斜面を下った。途中で太陽が山に沈み、後はどんどん暗くなる空と競争で転がるように下りていったのだが、峠の下の平地に下りつくと同時にあたりはとっぷりと暮れた。星明りでカルナリ川の水を汲み、お湯を沸かして簡単な夕食をとった。
一夜明けると快晴だった。ネパール側からヤクを連れた男が下りてきた。ヤクはみな材木を背負っている。もしかすると、前日にすれ違ったヤクを連れたカムバの一団かもしれなかった。

b0033537_22153510.jpg

ネパールと中国チベット自治区との境は、このカルナリ川だ。
峠の直下から、それほど遠くない。この橋が、ふたつの国を結ぶ。当たり前だが、対岸に渡れば中国だ。
想像していた国境は、もう少し谷が狭まっていたり、樹木があったり、崖になっていたりして、何かしら秘密めいた雰囲気のある場所だったのだが、実際のそれは乾いた平地に悠々と青い水が流れ、そこにかかる橋はあまりにも素朴で邪推のしようもなく、太陽に満遍なく照らされて一点の曇りもなく、正々堂々とそこに横たわっているのだった。
そして、辺りに人の気配はまったくなかった。「誰もいないわよ!」と、行き会った白人トレッカーが言っていたとおりに。
躊躇しなかったわけではないが、それでもあっけなく、橋を渡ってしまった。少なくとも、峠を下りた瞬間に比べれば、不安や恐怖はこちらのほうが少なかった。何しろ天気がよかったのだ。

橋を渡ってから、前日に越えてきた峠を振り返った。もう峠の取り付きはカーブの先になって見えず、峠の上のほうもどこがどうなって向こう側に続くのかわからなくなってはいたが。
たくさんの人に世話になって歩いてきた。みんなが助けてくれて、自分はここまで歩いてこられた。そのことと、自分がネパールの法を犯したことは、一生忘れずにいようと思った。
本には書かなかったし、前回の記事でも書かなかったのだが、私はムチュを抜け出してからもう一度、ボスに会っている。警備隊が私を追わなかったのは、一本道を向こうからボスがこちらに向かっていたからだったのだ。
ボスは私の下手な言い訳を聞き、「それじゃ、後からムチュに戻ってきなさい」と、見逃してくれたのだった。もちろん彼は、私が中国に入国できる可能性はゼロだと思ったのだろう。私のような人間は意外とたくさんいて、彼らもほとほと手を焼いていた可能性もある。どうせ帰されてくるのだから、まあ行きたいなら行きなさい、と思ったにせよ、彼がそれを許してくれなければ、私が峠を越えることはなかったのだ。
ありがたかった。そして申し訳なかった。
でも自分には、進む選択肢しかないのも事実だった。

b0033537_22342526.jpg

国境を越えてすぐに出会ったネパールの人。塩を買いに来て、これから戻るんだと言っていた。今日は峠の中腹まで行くと言っていたが、さて、どこかにビバークするような場所があっただろうか・・・?

b0033537_22352616.jpg

塩を背負ったヤギ。いや、ヒツジ?
革を縫って作った袋に入れた塩をみんな2つずつ背負っていた。意外と少ない。それともけっこう重いのだろうか。

b0033537_22364663.jpg

いま見ると笑顔の人もいて、そんなに悪い雰囲気でもないのだが、当時はひどく嫌な村に思えて早々に退散しようとしたシアル村。中国側に入って最初の村だ。人々としては、珍しいオモチャが来たような感じだったのかもしれない。とにかくもの珍しいから見物しよう、という感じ。
村はずれの道路工事の飯場で、ご飯を食べさせてもらった。白いご飯に、大根と肉の炒め物をぶっかけたものだったが、食べきれない分は大事にコッヘルに入れて次の村まで持っていった。

さて。
ネパールを出て中国に入ったものの、私はネパールを正式に出国したわけでもなく、同様に中国に入国したわけでもない。国境を越えれば常に押されるはずの出国スタンプも入国スタンプも、さらに言えば中国のビザさえ私のパスポートにはない。いま私がここにいることは誰も知らず、私はムチュ村で目撃されたのが最後の公的な足跡で、以後ふっつりと消息を絶った状態とも言えるのだ。
さて、どうする。
行けるところまで行くか。
とりあえず、次の村まで。
[PR]
by himalaya3 | 2007-09-21 22:56 | 西北ネパール~カイラス1992

峠を越えて

ヤンガル村でダル少年と別れた。
選挙休暇が終わるまでに学校に戻らなければならない彼の事情と、この先は単独の方が何かと動きやすいと思った私の事情が、うまく合致した。荷物の一部を彼に託し、私は60ℓのザックを背負い、カメラを突っ込んだかばんをたすきにかけて、西に向かって歩き出した。

ムチュ村まで約半日。
チェックポストにボスの姿はなく、さらに西の国境近くへ出張っているとのことだった。ここで1泊。もちろん、西へ進む許可は下りない。
ここまでに3つの大きな出来事が私を西へと進ませてきた。最後のポイントが、ここにボスがいなかったことだ。
もしこのとき、ここにボスがいて、「よく来たよく来た」と歓待されてしまったならば、私はおそらくそのボスを振り切って西へ進みはしなかったのではないか、と思うのだ。そうして思えば本当に、奇跡のように偶然が、よくもまあ重なったものだと思う。

さて、ここから私は国境に向かって逃げていくわけなのだが、詳しいことは既に書いているので(『チベットはお好き?』山と渓谷社刊)、もう一度恥の上塗りをするのもなんだか気がすすまない・・・。ここは簡単に説明するに止めます。

ムチュを未明に出発して、街道を西へ走る。警備隊に追われていると思ったが、結果的には誰も追ってはこなかった。この日はヤリ村に近いと思った地点で幕営。
翌日、雨から雪に変わる天候の中、やはり未明に歩き出すが進めずに数時間で幕営。まだヤリ村にすら着いていない。
翌朝、ようやく晴れてヤリ村を通過。行商の人たちに助けられて峠を登る。向こう側からも、雪待ちをしていた人々がどっと峠を越えてきていた。巡礼や兵隊など様々な人とすれ違う。ヤクを連れたチベットの人たちもいた。
実のところ、ヤンガル村を出た直後に振り返って村を撮影して以後、ヤリ村の麓で峠を見上げた朝までの間、1枚も写真を撮っていなかった。逃亡者になってしまった自分には、そんな余裕はどこにもなかった。

b0033537_20405866.jpg


雪の降り積もる斜面を登り、ようやく峠に立った。標高約4720m。
そのとき最初に目に入ったであろう光景が、この写真だ。
私を待っていてくれた行商の男が、私の無事を確認すると、はるか先を下っていく仲間を追って走るように下りていった。何人もの人が行き来したので、踏み跡がついている。私はここでザックを下ろし、びちゃびちゃの靴下を脱いで絞った。
この日、この峠を30人とかそのくらいの人間が越えたが、最後にここに立ったのが私だった。

b0033537_20452228.jpg


細長い峠の隅っこに立ち、チベットの大地とこれから下っていく斜面を見下ろした。
チベット側は雲が低く垂れ込めて暗く、晴れて光が溢れるネパール側とは対照的な風景だった。

実際の国境ははるか下を流れる川にかかる橋である。
しかし今思い返しても、国境の橋よりもこの峠のほうが、決断を迫られたという意味でははるかに重く記憶に残る。
そう、ここで引き返すという選択肢もあったのだ。引き返し、チェックポストで「すまんすまん、ちょっと峠まで行ってきちゃった」とごまかして(ごまかせるか?)帰るという道も。

このまま自分は二度と生きて国に戻れないかもしれないと、少しだけ思った。
でも、それでも、行くしかないなと思い決めた。
そっちに決めたことに理由なんかない。と思う。

ぐずぐずしていると、峠を下る前に日が暮れそうだった。峠の登りが長く急だったため、持っていた水をぜんぶ捨てていた。それでも重量としては20㎏ほどだったと思う。しょうがないので途中は雪を食った。峠で雪を集めようとしたが、あまりに乾いていてうまくいかず、水のあるところまでどうしても下る必要があったのだ。凍った雪の斜面につけられた踏み跡をはずさないように、慎重に下りはじめた。
この日、私はヒマラヤ山脈を越えた。
[PR]
by himalaya3 | 2007-09-18 21:05 | 西北ネパール~カイラス1992

ヤンガル村へ

チェックポストのボス一行が出発した翌日、雨がやんだので出発した。次の村はヤンガル。今の名称は違うかもしれない。今後も村の名前が現在の地図等で示されるものと異なる場合があるが、私は自分の地図と村人たちに聞いた名前で表記することにする。

道はケルミまでと変わらず、カルナリ川の左岸の崖を縫って続いていた。標高も特に上がるわけではなく、上ったり下がったりで、トータルすればほぼ同じ標高を歩いたように思う。
前日の雨のおかげで、砂埃はだいぶおさまっていた。が、日に照らされればすぐに乾く土質で、歩くうちにだんだんとほこりっぽくもなってきた。

ケルミまではそれなりに道を歩く人に出会ったが、この日はほとんど出会わなかった。この親子はケルミからさほど遠くない場所ですれ違ったと思う。ケルミの村人だろうか。ちょっと畑まで行ってきました、という感じかもしれない。
b0033537_21343859.jpg


b0033537_21353439.jpg

途中で一度、橋を渡った。カルナリ川ではない。そこに合流する支流だ。その直後に見えた雪山。街道からは南に見えた。7031mのサイパルかと思うが、わからない、自信は全然ない。考えてみるとヒマラヤの山中を歩いているにしては、雪山をほとんど拝んでいなかった。このあたりでこれが見えた後、また山とはしばらくお別れとなった。

この、橋を渡った直後から、この街道の旅で唯一と言っていいオアシスのような風景になった。緑の平原、その中央を流れる清冽な沢、感じのいい林が広がった。草原には花が咲き、蝶が舞っていた。

b0033537_21434616.jpg

その草原で、放牧に来たらしい子どもたちが火を起こしてお茶を作っていた。
またまた100年前の写真で悪しからず。

b0033537_21444795.jpg

これはちょっとマシ。男の子たち。虎刈りがかわいい。服のほころびなど今見ると、繕ってあげたくなってしまう。
この子どもたちの話す言葉は、それほど離れていないシミコットに住むダル君にもまったくわからないそうだった。チベット語を話していたのかもしれない。

さて。
この少し先の樹林の中で、3つ目の大きな出来事が私を待っていた。
それは、歩いてきた。この街道を、西から。
東から西に向かって歩く私とは、正面衝突したわけだ。
それ、とは、人間だった。
しかも、ここにいてはいけない人間。
白人だった。
許可証など持っていなかった。ケルミまでの許可証すら。
そしてあろうことかこの白人は、中国側のプランまで行って追い返されてきた、と語った。
チェックポストは普通に歩いてクリアしたとのたまった。
「中国語ができるんなら、カイラスなんてもうすぐそこよ!」
たいして荷物を持っていない白人2人は、そう私を励まして歩き去っていった。

この白人に出会うまで、私の気持ちの中には国境を突破してカイラスまで行くという野望は、ほんの1%あるかないかだった。ムチュまで行ってチェックポストでボスたちと再会を喜び、じゃあまたねと東に戻るつもりだった。もちろんそこで「もうちょっと先まで行っちゃダメ?」と聞こうとは思っていたが、それがかなえられるとは思っていなかった。だから戻るつもりだった。
それが、揺らいだ。
行けるんじゃないか。
初めてそう思った。
国境を越えることができたら、その先、何とかすることができるかもしれない、と思った。
なぜなら私は日本人であり、漢字の読み書きができ、中国語もわずかだが話すことができる。少なくとも私は、中国語で「主張している」フリができる。何事かを「伝えようとしている」ことを相手にわからせることができる。
これは・・・・・・。
行けるかもしれない。
私の頭の中で、悪魔がささやきはじめていた。正直、傾いていた。だが、大きな障害がこの先に待っている。ムチュのチェックポストである。

さて、悪人と善人の戦いはともかくとして、西へ歩かなければヤンガル村にも到着しない。私はダル君の背中を追いかけて、またひとつ橋を越え、再び断崖に穿たれた道を進んでいった。

b0033537_2272632.jpg

ヤンガル村(だと思われる。確かではない。違ったらご容赦)
おそらく翌日、村を振り返って撮ったと思われる。ヤンガル村も左岸にある。
家々は積み重なるように建っている。ダル君が泊まる場所を見つけてくれた。電気技師の家の屋上。ここにテントを張った。英語のできる技師さんは、純朴な社会主義者だった。もし今も生きていれば、ネパール共産党のどこかの派の幹部になっているだろう。

b0033537_22102553.jpg

薪を運んできた少女。

b0033537_2211023.jpg

村の中を歩いていてチベット犬に吠え立てられたとき、助けてくれた兄弟。

さて、この先どうなるのか。道はなお西へ続く。
[PR]
by himalaya3 | 2007-09-09 22:19 | 西北ネパール~カイラス1992

奇跡のはじまり

パーミットの限界地点だったケルミ村で私に起きた奇跡の話をそろそろしませう。と思ったが、その前に、なぜ私がこの旅に出かけたかというあたりがすっぽり抜けているので、まずはそのあたりから。

1988年に旅を始めた時から、私の目的地はカイラスだった。ところがチベットは対外未開放の政策を取り続け、なかなか入るチャンスがなく、91年にようやくラサには足を踏み入れたもののその先へは行けず、カトマンズに抜けた。そのとき小耳に挟んだのが、西北ネパール、シミコットの北にある峠からカイラスが遠望できる、という話だった。
当時、カイラスにどうしても行こうとすれば、ラサから車をチャーターして行くくらいしか方法はなかったのだが、それには抵抗があった。何日も、小さな車に何人もで詰め込まれて走るなど、自分には無理だと思ったのだ。精神的にどうこうというより、体力的に真っ先に脱落し、人々に迷惑をかけるのがいやだった。
だから、カイラスは行きたいけれど、行けないかもしれないな、と、半ばあきらめていた私に、「カイラスを遠望できるネパールの峠」は、実に魅力的に聞こえた。トレッキングの経験は何度もある。その途上で小さくてもカイラスが見えるのなら、自分にはそのあたりが分相応かもしれない、そう思った。

それなりに情報の収集もしたけれど、正確なものは何一つないまま、翌92年5月にカトマンズ入り。ケルミまでの許可証を手に歩き始めたのは、前述のとおりだ。

さて、ケルミ村で1泊し、温泉見物などをすませた私は、引き返すつもりでいた。引き返し、シミコットを通過してはるか南のムグ郡へ歩いてみようかと思っていた。
カイラスが見える峠というのがどこのことだかわからず、カルナリ川を逸れて北へ向かうルートはもう許可証の範囲を超えてしまっている。そうするよりほかに道はなかった。

その夜、ダル君と一緒に米を炊いていると、一緒に泊まっている役人さんたちが「野生獣の肉」を差し入れてくれた。何の肉だったのだろう・・・?
それを食べた後、焚き火の周りに皆が集まり、おしゃべりが始まった。電気のない室内に炎が揺れ、人の影が壁に揺れる。ネパール語をほとんど話せない私には、彼らの会話は音楽にしか聞こえず、眠っているような起きているような、ふわふわした時間を過ごしていた。だから突然、
「ムチュまで行くか?」
と聞かれた時、それが英語であり、私に聞いているのだとはわからなかった。ムチュはケルミからさらにカルナリ川に沿って西進した地点にある村だ。私の足では2日はかかるだろう。
聞いていたのは若い役人だった。
「行きたいけど、許可がないので行けません」
そう答える私に、年かさの髭をはやした人が言った。
「ムチュまでなら行っていいよ。なんなら明日、一緒に行こう」
「でも、ここまでしか・・・」
躊躇する私を、皆が笑って見ていた。そして若い役人が言ったのだ。
「この人は、ムチュのチェックポストのボスなんだよ」
驚いている私に、そのボスが重ねる。
「私がいいと言えばいいんだ。明日、出発しよう」
話はそれで終わり、またネパール語が飛び交う世界に戻った。いま聞いたことが夢なのか現実なのか、いや夢ではない、私は明日、西に向かって歩き出せるのだ、そうはっきりと認識したのはどこでだったろう。もう記憶がない。
火が落ちて皆が寝静まり、深夜、トイレに立つと降るような星空だった。カルナリ川のごうごうという音だけが響く校庭で、私は立ち尽くした。星明りにぼんやりと、明日進んで行く道が見えるような気がした。

翌朝、起きると雨がざーざー降っていた。合羽に身を包んだ役人さんたちは、「道が危ないから後から来なさい」と言い置いて出発していった。
これが2つ目の奇跡、というかターニングポイントになった。もちろん後から考えれば、の話だが。
ケルミ村でムチュのボス(つまりは警察官僚か、軍の幹部だろう)に会わなければ、また、会っても彼らが「ムチュまでおいで」とうっかり言わなければ、私が西進することはなかった。
そして、もしあの朝が晴れていて、私が彼らと行動を共にしていたら、多分私はムチュで引き返さざるをえなかっただろうと思う。

さて、そんなわけで、私は西へ進むことになった。カイラスどころか国境さえ、いやムチュでさえ、はるか彼方に思える地ではあったが。
[PR]
by himalaya3 | 2007-09-03 21:07 | 西北ネパール~カイラス1992