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四川省布施・1991年(1)

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中国四川省涼山彝族自治州布施鎮。
おそらくこれで正しいかと思うのだが、布施県だったかもしれない。検索で出てこなかったので、不確かなままで相すみません。

1991年の夏、四川省の成都から最初空路で、次に陸路で、それぞれラサ行きを狙ったものの果たせず、がっかりしていた時に、交通飯店の掲示板に「彝族の火祭りを見に行きませんか!」というツアー募集の紙が貼り出されているのに気がついた。
それまで、この民族の名を聞いたことはあったが、実際にはどういう人々で、どこに住んでいるのかなど、ほとんど何も知らなかった。迷わずに、この祭りに行ってみようと思った。ただし、自力で。
その紙にあった地名は、西昌と布施の2つ。地図を一生懸命に見て、まず西昌を見つけ、次に布施を見つけた。自力で行けそうだな、と思った。
成都から夜行普通列車で西昌へ。明け方着いてそのままバス駅に走り、切符の売出しを待ったが、この日は結局切符が買えなかった。許可証が要るのである。そのまま公安局へ向かい、事情を説明して許可証を発給してもらった。

西昌を早朝に出発したバスは、最初こそ静かに進んでいたが、2時間もすると車内は着飾った彝族の人々で一杯になり、歌が始まった。私にはさっぱり聞き取れない歌。男も女も大合唱だ。昭覚を過ぎるとバスはぎゅうぎゅう詰めとなったが、歌が絶えることはなかった。
布施が近づくと、未舗装の一本道を歩く人々が目に付くようになる。マントを羽織る特徴的な民族衣装も美しく、何より彼らは、決してバスを振り向いたりしないことに驚かされた。まっすぐ前を見据え、自分を追い抜いていくバスになど一顧だに与えず、黙々と歩いていく。これは何かとてつもない民族なんじゃないか、と思えた。

布施に到着すると、町に一軒の招待所に向かい、チェックイン。事務室には町の偉いさんと思われるおじさんが数人いて、全員でパスポートと許可証を念入りに見学した上で、「記録に残る限り、当地を訪れた外国人としてはあなたが2人目です」と言った。冗談だと思うが、真偽は不明である。「これからツアーの人々が来るのではありませんか?」と尋ねてみたが、「いいえ、誰も来ませんよ」との答え。ツアーは成立しなかったらしい。

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町の中心である大交差点。当時ほとんど車は走っていなかった。トラクターがたまに通るくらい。あとは馬車やロバ車。だから人があふれていてもちっとも困らない。困らないのだが、人が密集すると見ると、公安が飛んできて「解散!」と警棒を振り回すのである。

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こんなふうに馬車がカポカポと通り過ぎる。のどかな町だった。みんな明日からの祭りに備えて、前日に現地入りしているのだろう、と見た。

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女の子たちの民族衣装がかわいい。藍染の色も鮮やかだった。もう少し大きくなると、ほかの写真にあるような、白や黒のマントを羽織ることになるのだろう。この、白と黒に何か意味があるのか、たとえばかつて奴隷制があった彝族だから、身分の違いが表されているのか、それとも、黒彝族、白彝族といった違いがあったのだったか。よく記憶していなくて申し訳ありません。

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映画館の前に座り込む人々。
とてもたくさんのプリーツを折り畳んだロングのスカートと、青い上着はセットなのだろうか。この上におそらくマントを羽織るのだろう。
上映予定の映画はみな雄雄しいタイトル。天安門事件からちょうど2年が経過しているが、まだピリピリした時代だった。移動許可証を発給してもらわなければ、中国の人ですら自由に移動できなかったのではなかったかと思う。たしかバス駅ではみな、A4サイズの紙を大事そうに持って並んでいたと記憶している。
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by himalaya3 | 2007-12-30 20:12 | 四川省布施1991

トルファン 1988年6月

蘭州から西へ向かう列車は、まことに緩慢に走っていたと思う。
同じコンパートメントに酒泉の大学教授親子が乗っていた。この時期の中国では、いついかなる場合でも、人を見たらタバコを勧めるのが礼儀であった。同乗した彼らもまた、執拗に私に勧めるのだが、「本当に吸わないのだ」ということを理解した後は、決してコンパートメント内では喫煙しなかった。当時もそういう人はいた、のである。そう、いくらでも。
この人たちが「帰りには酒泉に寄るでしょう?」と聞くので、「ええ、多分」と答えると、「葡萄美酒夜光杯」に始まる漢詩をとうとうと詠い、尚且つ私の手帳に書いてくれた。その字のまた美しいこと! 今も大事に取ってある。

因みにこの漢詩は、王翰という人のもので、全文は以下に。

葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑
古来征戦幾人帰

恥ずかしながら、一行目しか読み方がわからない。帰路、私は敦煌から酒泉に寄り、夜光杯をお土産に買って帰った。多分今も、両親のところにあると思う。

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トルファンのバザール。それほど人であふれているわけでもなく、どちらかと言うと閑散としていた印象が強いのだが、どうだろう。
ここで売っていたのは、ドライフルーツと固いパンと、あと何だろう。隅のほうでウイグル帽子などは売っていたか。シシカバブも焼いていた。麺の屋台も幾つかは出ていた。でもやっぱり、賑やかな記憶はないのだ。

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トルファンでいつも移動の時に乗っていたロバ車。チェックのシャツを着ているのは、同じホテルに泊まっていた日本の人。一緒にバザールに来て、帰るところかな。人民帽の男性が写っているが、これはロバ車の兄貴。弟はちゃっかり後ろに座っているようだ。いつも闇チェンジマネーを持ちかけてくるのだが、まぁまぁ便利でよく使った。

ある時、人民元の残りが少なくなったので、この兄貴と闇チェンをした。レートはもう覚えていないが、この頃のトルファンあたりだと、130には届かなかったのではないだろうか。成都だと150に近い数字だったと記憶している。今資料が手元にない場所で書いているので、定かではないが。
その日の夕方、ぶどう棚の下でだらだらしていると、ロバ車軍団の別の子どもたちがやってきて、「今日、姉さんと換えたワイホイね、彼は10元も儲けたよ」と言う。そりゃ、儲けがなければ始まらないし、お互い必要としてるんだからね、なんてことを彼らに言っていると、当の本人が来た。どうも遠くで、私と彼らのやり取りを見ていたらしい。ちょっと気まずそうな顔をした彼は、ついと小売部に入っていくと、やがて缶のジュースを手に出てきて、私のテーブルにそれをゴトッと置くと、一言「やるよ」と言った。そしてそのまま、振り返りもせずに通りに出て行ってしまった。
そんなことを、よく覚えている。
当時、缶入りの飲み物はずいぶん高かったことと共に。

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トルファンからカシュガルへの移動時の、何となく飯屋っぽい場所。こんな感じだった。どこも似たようなもので、これ以上でも以下でもなかったような気がする。
よく見ると、男たちが座っているベンチの足が見事に斜めに傾いていて、なぜひっくり返らないのか不思議だ。柱によりかからせてあるのだろうか。
別のバスでほぼ一緒に動いていたオーストラリアからの留学生は、「Never eat street food」と言っていた(私の英語であるからして、間違っていると思う)。言われたこちらは既にストリートフードを食べてしまった後で、その日だったか次の日だったか忘れたが、走行中のバスを無理やり止める羽目に陥った。バスから降りても一面の土漠で、身を隠すようなデコボコもなく、バスの車体の下に潜ることは思いつかず、ただダーッとある一点めざして走ったのを思い出す。何か理由があってその一点に決めたのではもちろんなく、もう、どっちに行っても同じなのである・・・。
あの時の苦しさとこっ恥ずかしさを思い起こせば、世の中大抵のことは何とかなる、と思える。というのは少々大げさか。
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by himalaya3 | 2007-12-28 17:45 | 中国シルクロード・1988

ラサ 1991年7月 デプン寺周辺

許可証がなければ入ることが許されないチベット自治区であるのだが(それは1991年当時も今も変わらない)、一度入ってしまうと許可証などなくてもまったく困ることはない、というのが中国の面白いところだと思う。通常、これだけ入域を厳しく制限しているのだから、たとえばラサのゲストハウス一斉抜き打ち外人狩り、夜中に全員たたき起こして「身分証!」、なんかを行っても不思議ではないと思うのだが、それはしない。少なくとも私は、そんな話を聞いたことがない。
中国は不思議な国だ。つくづくそう思う。
因みに、身分証のことをたしか中国ではシェンフェンジャン、と言ったかと思う。旅行者にとって、特にチベット圏を旅する者にとっては、聞きたくない言葉の筆頭かもしれない。

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旧市街の路地で、練炭をたくさん積んだ馬車がいた。練炭、で間違いはないだろうか。円筒形の黒い炭の塊で、穴がたくさん開いていて、七輪のような物の中に入れて炊事に使う。昭和40年生まれの私には、生活の中で見た記憶はない。
ラサの7月。朝晩はやはり涼しかったと記憶しているが、火が欲しいほどではなかった。

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デプン寺は小高い山の上にある。舗装された道路でバスに落としてもらい、あとは山道をてくてくと登っていくと、そこに入り口がある。
山道を登っている時に、反対に下りてきた人から「写真を撮って」と言われた。この人にも帰国後すぐに送ったのだが、やはり届かなかったそうだ。当時のチベットには、郵便物は届かなかった、非常に届き難かった、と考えていいだろう。
9年後、彼女は一児の母となり、同じ集落に住んでいた。また子どもと一緒に写真を撮り、送ったが、届いてはいないような気がする。
大きさと重さから、ポラロイドカメラを持つ気にはならないのだが、ことチベットに関しては、「持っていればなぁ」と思うことが多々ある。フィルムからデジタルに変わっても、その場で手渡すことができないのは同じだ。尤も、ラサあたりなら、プリントして渡しにいくことは可能かもしれないが。

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デプン寺は全体として大きな寺になっているのだが、チベットの寺院の多くがそうであるように、小さな建物の集合体である。寺院の中は細い路地がめぐっており、どこをどう行くのが本筋なのか、すぐにわからなくなってしまう。
そんな風にして迷うでもなく迷わないでもなく歩いていた時に、山門の上からお坊さんが「おーい」と声をかけてきた。大きく腕を振って、「入ってこーい」と言っているようだ。山門の横にあった小さな入り口を背中を丸めてくぐり、中へ入るとお坊さんが待っていてくれて、案内してくれた。3階部分がいちばん重要な場所のようで、バター茶をご馳走になっている私たちのすぐ横で、尼僧が1人、いつまでもいつまでも五体投地を繰り返していた。

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テプン寺を出たところで、だったと思う。僧が1人、「クチクチ」と寄ってきた。この場合の「クチクチ」というのは、どう訳すべき言葉なのだろう・・・、「喜捨を」だろうか。乞食だと「お恵みを」になるのだろうけれど。
どこかへ巡礼に行く僧なのか、あるいはどこかからか巡礼に来た僧なのか。澄んだ目をしていた。いま写真を見返しても、そう思う。

※フォーマットが崩れていたようで、失礼しました! ちゃんと見えるようになりましたでしょうか。教えていただきありがとうございました!
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by himalaya3 | 2007-12-26 13:54 | ラサ1991

ラサ 1991年7月 ポタラ宮殿周辺(2)


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ポタラ宮殿の中をあっちへ行ったりこっちへ行ったり。人の流れについて登ったり下りたりしていて、やがて出たのが屋上広場のような場所。たしかここは白宮と言ったような・・・。記憶が曖昧で、今手元に資料もなく、ご容赦ください。
ポタラ宮殿のかなり上のほうだった。ここから先が、ダライ・ラマの居住空間だったと聞かされた記憶もある。そうなのかな? 間違えていたらご教示ください。
尼僧が一人、じっと佇んでいた。

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メインストリートのポタラ宮殿近く。郵便局とポタラ宮殿の間だったと思われる。
道端にはこんな風に物売りが。ほとんどは漢族、買っているのはチベット族。まだ人民服を着ている人も多かった。解放軍帽子をかぶっている人はさらに多かった。

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上の2枚の写真は、ポタラ宮殿直下の民家で撮ったものだ。
カメラをぶら下げてポタラ宮殿に向かっていた私を、少女が見つけて走り寄り、「写真を撮ってほしい」と言った。応じると「ちょっと待ってて」というそぶりをして、家の中にかけ込み、やがてもう1人の少女と一緒に着替えて出てきた。そして撮ってあげたものが上の写真だ。
そのうちにおばあさんも現れて、じゃあみんなで1枚、ということになった。通りすがりの漢族の人がシャッターを切ってくれた上に、この人たちの住所と名前を漢字で書く手伝いもしてくれた。
帰国後、真っ先にこの人たちに写真を送ったが、返事はない。別にそれ自体は普通のことなので(海外に手紙を送るほどの余裕がある人とはあまり出会わない)気にはしないのだが、着いたのかどうかという不安はずっと持っていた。

2000年11月に、実に9年ぶりにラサに行った。
この時の写真を再び焼いて行き、この家族の家を訪ねたら、強制移転させられた後だった。その近くにいた人たちにずいぶん尋ねまわり、ようやく移住した先の村の名前がわかった。タクシーでそこに行き、たしか「居民委員会」という看板がかかった事務所でこの写真を見せ、尋ねると、このおばあさんはいる、ということがわかった。親切に案内してもらって、おばあさんに写真を手渡すことができたのだが(やはり送った写真は届いていなかった)、面白かったのはそこからだ。
「この娘さんたちはお元気ですか? 写真を渡せたらうれしいのですが」
と尋ねた私に向かい、彼女はこう言ったのだ。
「さあ、この娘たちは誰だったかねぇ。遠くの村から近所に遊びに来ていた娘さんたちだったかしら、もう覚えてないわねぇ」

てっきり祖母と孫娘たち、そしてその赤ちゃんという組み合わせだと思い込んでいたので、意外だった。びっくりした。
結局、娘さんたちの行方はわからなかった。そもそも、誰であるかも彼女は思い出せなかったのだ。
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by himalaya3 | 2007-12-25 00:58 | ラサ1991

ラサ 1991年7月 ポタラ宮殿周辺

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1991年夏、チベットを目的地として旅を始めてから4年目にして、ようやくラサの地を踏んだ。この時の話は拙著の中で書いているので、繰り返しになる方もあるかと思うが、お許しを。

実はこの時のラサは、行こうとして行ったわけではない。四川省の成都でラサ入りを狙ったものの果たせず、あきらめて、ラサ経由カトマンズ行きの航空券を入手した。ラサでは機内待機して、その飛行機がそのままカトマンズへ飛ぶ、と聞かされた。だからなのだろう、許可証もなしに航空券は買えたのだ。
しかし成都では出国審査がなかった。ということは、ラサで降りて出国するわけで、既にしてここから予兆のようなものはあったのだ。
ラサで飛行機を降り、荷物を受け取って(つまり機材も交換だ)空港ビルにぞろぞろと入っていくと、そこは陥落直前のサイゴンのアメリカ大使館か? という混乱ぶりだった。大勢の欧米人旅行客とそのガイドらしき中国人が、カウンターを挟んで民航の服務員と闘っていた。その混乱の只中に投げ込まれた私は、そのままスルリとその場所から消えてなくなった。
彼らが自分だけは勝ち取ろうとしていたのは、カトマンズ行きの座席だったからだ。
どうぞ行ってください、私の席なんざ差し上げます、どうぞ、どうぞ。
しばらく経ってから、カトマンズ行きの飛行機が飛び去っていった。それから私はゆっくりカウンターに行き、「私って、これからどうなんの?」と聞いたのだった。服務員はこう言った。「申し訳ありませんが、ラサへ、行ってください」
中国人が「申し訳ありません」と言うのも珍しかったが、「ラサへ行ってください」とお願いされたのが何ともいい気分だった。頼まれたんじゃ嫌とは言えねぇな、しょうがない、行ってやるか。
こうして私は、カトマンズに飛べなかったかわいそうなイタリア人グループのバスに同乗させてもらって、ラサに入ったのだった。

冒頭の写真は、当時のポタラ宮殿を下から見上げたところ。広場には普通の建物が見えるが、ここにはチベット人が居住していた。昔から住んでいた人たちなのだろう。この数年後、この人たちはポタラ宮殿の裏側に強制移住させられた。そしてこの村は取り壊され、今ではポタラ宮殿下の人民広場の一部になったか、あるいは道路の一部になってしまった。

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ラサ旧市街の中心地、ジョカン(大昭寺)の前から遠望するポタラ宮殿。今では多分、ここからは見えないのではないかと思われる。定かではないが、高い建物がたくさんできて、おそらくは。

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ポタラ宮殿から出てくると、チャグポリの丘の前だった。
ここも聖なる地であるため、写真でわかるようにたくさんのタルチョーがはためいている。しかしこのてっぺんには、テレビ塔が立てられていた。宗教は毒、ですから。中国の思想としては。


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ネチュン寺の近くで、尼さんだけがいるお堂があった。
よく調べていないので申し訳ないのだが、ネチュン寺の一部なのか、別の尼寺なのか、わからない。窓の外に花がたくさん育てられていて、チベットの人は花が好きなんだなーと思った記憶がある。それから十年以上の歳月を経て、私自身がラサまでではないが国内では厳しい気候環境の土地に住むようになり、今では彼らの気持ちが実によく理解できる。厳しいからこそ、植物が育つ季節にはたくさん育てて愛でたいのである。

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これもネチュン寺(またはその近く)の様子。壁画を修復していた。
チベット動乱の時、そしてその後長く続いた破壊の時代、そして文化大革命と、およそ25年間に及ぶ長い時間、チベットの寺院や文化は徹底的に破壊された。文革の終了からこの時で15年が経過していたわけだが、こうして修復することが許されるようになっただけ、中国のチベット政策は幾分マシになったと、言えるのかもしれない。あくまでも、あまりにもひどすぎた時代との比較であって、これがよい状態だと言っているわけではない。念のため。

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デプン寺からラサ市内に向かう山道がある。寺からまっすぐ下ればバスの通る道路に出るのだが、下らずにラサ方向へ行ける。今どうなっているかは知らないのだが。
その道を歩いていると、細い山道に座り込んでマニ石を彫っている人がいた。マニ石とは、石に真言を彫りこんだもののことで、チベット文化圏の峠や村の周囲などでよく見かける。たくさん集めて塚にしたり、石垣のようにずらっと並べたりもする。



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この人は、ヘビやカエルといった生き物も彫るようだった。あまり他では見かけないように思う。特にネパール側のチベット文化圏では、見たことはない。
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by himalaya3 | 2007-12-22 15:10 | ラサ1991

新疆ウイグル自治区カシュガル、ウルムチ

チベット自治区ンガリ地区の基地の町・阿里を出てから4日目に、最後の峠を下って新疆の暑い空気の中にたどり着いた。途中トラックストップで2泊、3泊目は例の難所越えのため徹夜だった。下に下り着いたときには、フラフラだったと思う。
ポプラ並木、その横の水路、板作りの小屋、赤や黄色がまぶしい民族衣装、野菜や果物が山積みの軒先・・・。そのどれもが衝撃的に目に飛び込み、ああ、チベットの旅は終わったんだなーと、しみじみとぼやけた頭で考えた。

葉城に着いたのは夕方だった。運転手にお金を渡し、お礼に夕食をご馳走すると誘った。そして食堂に行ったのだが、私を乗せてくれた運転手も、もう1人の運転手も、ほとんど何も口にしないのである。聞けば、チベットから帰った時はいつもこんな風で、胃が痛くて何も食べられないのだそうだった。それは悪いことをしたなぁと思いつつ、それほどに過酷な道行きなのだと、あらためて思わされたのだった。
そう、阿里を出る時は5台だったグループなのに、到着したのは3台だけだったのだ。

葉城からカシュガルは、バスで1日の距離だった。
カシュガルでは老賓館に泊まり、冷やしトマトに冷やしきゅうりに冷やし肉を食べて、あっという間に倒れた。危ないなと思いつつ、どうしても食べたかったのだ。食べずにはいられなかった。

b0033537_20261746.jpgカシュガルの日曜市場。馬に試し乗りをしている。ここは88年に続いて2度目だが、いつ行っても男の世界という感じだ。もちろん、服やカバンなどを売っているエリアには女性もたくさんいるが。


b0033537_2027268.jpg「写真撮って撮ってー!」と走りよってきたウイグル人の兄妹。撮ってあげると大満足して、住所も告げずにまた走り去って行ってしまった。おいおい、写真は送らなくていいのか! と追いかけようかと思ったけれど、かなり疲れていたので呆然と見送ってしまった。


b0033537_20282355.jpg新疆飯店(自信なし)からまっすぐにウルムチ駅へ続く道。1992年7月は、こんな風景だった。車など、ほとんど走っていない。当時はバスとトラックの類ばかりが走っていたような記憶がある。普通のセダンなどは一番見かけないタイプの車だった。

さて。
旅の終わり、私は広州まで何とかたどり着いた。最後に残る問題は、中国を出国すること。
なぜなら私のパスポートには、中国ビザはないままだったから。
私のパスポートに押されていたのは、入国スタンプと、ビザ延長スタンプ。ビザがないのだから、ビザ延長スタンプは無効である。
船で香港に出ることにした。人間が乗る前に荷物が全て船に乗ると踏んだからだ。事実そうだった。乗船が始まってから私はずっと待ち続け、最後近くなってようやく列に並んだ。
窓口では、当然、私のパスポートは問題になった。役人が集まり、何事か相談したり私に詰問したり。私はただただ、「これでどこまで行ってもいいと言われたんだもん!」と繰り返した。船の汽笛が鳴り響く。船員が走り回る。最後の乗客が乗らなければ船は出航しない。私の荷物だけを探して下ろせるわけがない。
予定時刻を何分も超過した。ついに役人たちが折れた。出国スタンプが押され、パスポートは返された。そして私は船員と一緒に走って船に乗り、中国を離れたのだった。

私がこのルートを行った翌年、シミコット~カイラスルートは公式な観光ルートとして開かれた。ただし特別な許可証を得て、代理店を通じてキャラバンを組まなければならない。ずいぶんお金はかかるだろうと思うが、魅力的なコースであることは確かだ。

旅を終えて日本に戻り、私はムチュのボスに手紙と写真を送った。「あの後、道に迷っちゃって、でも最後はシミコットに出られて帰りました」と、うそ八百を書いた。そうじゃないと、彼の責任問題にもなりうると思ったからだ。
ボスからは、丁寧な返事が来た。
「今年はまだ開放されていなくて残念だったけど、来年、このコースは誰でも行けるようになるから、またいらっしゃい。ムチュに寄るんだよ。写真は村の人たちに渡したよ」
そう書かれてあった。この手紙を、私は今も手元に持っている。
あれからもう15年。もうボスはあそこにはいないだろう。まさかマオイストとの戦いで命を落としたりしていないといいのだが。
もう一度、ボスに会ってみたいと今でも思う。あのとき、本当はわかっていたんだよね、と聞いてみたい気もするが、それはお互い野暮というものか。
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by himalaya3 | 2007-12-20 18:25 | 西北ネパール~カイラス1992

阿里から新疆ウイグル自治区へ

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阿里は別名獅泉河とも呼ばれ、どちらが本当なのかもう忘れてしまった。巨大な解放軍基地があるこの街は、ほかには何もないと言っても過言ではない。うら寂しいデパートが1つ、銀行がたしか1つ、ほかに賓館が1つ、招待所が1つ。市場が1つあって、ここには食堂と小売商店がごちゃごちゃっと固まってあった。漢族ばかりのさびしい小さな町だったような気がする。買い物に来ているチベット人などはいたと思うが。

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阿里から新疆ウイグル自治区の葉城まで、当時は4日かかった。途中、トラックストップのような場所に泊まりながらの旅である。
これは死人杭という地名の道班。ここで昼休憩をした。
巨大な黒いカラスがたくさんいて、気持ち悪かった。

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どこで撮影したのかもう覚えていないのだが、このルートのどこか。日土かもしれない。馬を連れた老人が歩いていた。

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ルート中の難所、苦地大坂(クディ・ダーバン)。
ここが一週間に1日しか開かず、一気に両方から車が集中するため、かなりの混乱ぶりだった。土というよりは土の粉と言ったほうがいいような、すさまじく微細なものが堆積した道路は、ほとんどが車一台通るのがやっとの幅しかない。路肩に車止めなどあるはずもなく、ここから転落すればもちろん一巻の終わりだ。

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ところどころに車待ちの場所が作ってあり、私の乗ったトラックもここで2時間かそこら、上から降りてくる(チベットへ向かう)トラックを待ち続け、やり過ごし続けた。待っている間に日は完全に落ちて真っ暗闇になり、運転手がどこかへ行ってしまった助手席で、カラカラカラと絶えず聞こえる崩落の音に怯え、ヘッドライトに照らされた路面がすさまじい速さで流れていく幻覚に悩まされながら、座っていた長い時間を今もまざまざと思い起こす。そんなときに、空なのか山なのかわからない真っ黒のはるか高みでピカッと何かが光る。それはまだ続く対向車のヘッドライトで、それをやり過ごすまではこちらは発車しない。それが驚くような高さで時折光るのが、この世の者ではない何者かが下りてくるような気がして、不思議な気持ちで見ていたものだった。
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by himalaya3 | 2007-12-08 01:30 | 西北ネパール~カイラス1992