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雲南省西双版納カンランパ1989 (2)

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カンランパ自体は特に何もない町なのだが、対岸に渡し舟で行くことができた。船で向こうに渡ると、バスが待っている(こともある)。このバスに乗ると、30分ほど離れた小さな村に行くことができた。ここが当時開放されていたかどうか、記憶にない。
どの家も同じような形をしていて、南国特有の高床式になっていた。1階部分はたとえば織り機があったり、耕運機があったり、ブタがいたり、ニワトリがいたり。壁のないそこは風がよく抜けるので、景洪の町はずれにあった当時としては珍しいゲストハウスでは、そこは台所と食堂として利用されていた。

b0033537_23144533.jpg村の中を歩いていると、綿糸をつむぐ人に会った。この人だけではなく、時には男性も、同じように紡ぎながら歩いたりしゃがみこんだりしていた。


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ちょっとした広場のある場所に出た。子どもたちが遊んでいる。とても学校とは思えない建物だが、もしかしてと思い、「おーい、ここは学校なんですかー?」と拙い中国語で聞くと、「学校だよー!」と合唱が返ってきた。

b0033537_2319356.jpg女性の先生が2人、ここに住みながら教壇に立っているらしかった。片方の先生は小さな子供連れだ。


b0033537_23214643.jpg突っ立っているのが先生の子ども。ほかの子たちは皆、学校の生徒だ。犬がかわいい。



さて、村に行ったはいいが、帰りのバスはもうない。ぶらぶらと船着場まで歩いていくことにした。ゴム園の様子を見たりしながら、サトウキビ畑とジャングルが交互に続く土の道を、2時間くらいかけて歩いて帰った。なんとか渡し舟の最終便には間に合った。
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by himalaya3 | 2008-01-20 23:27 | 雲南省1989

橋の上  四川省布施・1991年(4)

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町はずれの路地で、地面にぺったりと座り込んで布を織る人を見つけた。しかもここは道路だ。車など決して通るものかという確たる自信に裏打ちされた行為なのだろう。
織っているのは羊毛の幅の狭い布。おそらくこれを接いでスカートにしたりマントにしたりするのだろうと思われる。この写真を撮ったときは、まさか将来自分が布屋になるなど思いも寄らず、詳しいことは聞かなかったのが残念だ。
周囲にいるのは、多分このおばちゃんの子どもたち、または近所の子どもたち。この時期、この地域の人民帽着用率は非常に高かった、というのが見てとれるかと。
左の人のマントのかっこよさはどうだ! 袖なしで前もボタンなどはない、完全に肩に引っ掛けるだけのマント。見てわかるとおり、非常にカッチリとしている。密に織った羊毛の布をおそらく水に漬けて縮め、もしかすると重ね、そしてびっしりと刺し子をしている。装飾としての刺し子ではなく、単純に強度を高めるための刺し子なので、布と同じ藍の糸を使っている。

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ノートに名前と住所を書いてもらっているところ。この人のことはよく覚えている。いま手元に当時の日記やらは持っていないのだが、彼女の名前だけは覚えている。シャヘイシェンマさん、と言った。年齢は私と同じだったから、えーと、26歳だったか。
どういう話の展開だったかまったく記憶していないのだが、この後シャヘイシェンマさんと町を歩き、一緒に「砂鍋米線」を食べることになる。当時1杯が1.5元くらいだろうか、いや、1元か、このへんは調べてからまた訂正します。
それから彼女と大交差点に向かって歩き、彼女が道端の物売りから果物(りんごだったか)を買って、ひとつ私にもくれた。いや、7月だ、りんごではない、梨か?

それから大交差点に行くと、そこは祭り見物に来た彝族でごった返しており、パレードまでまだ2時間はあったと思うのだが、早くも大勢の公安が警棒を振り回して彝族の人々を整列させようとしていた。整列! ともかく、道の両側にずらっと並べ、前の人を座らせようとしていたのだ。
あまりにも人が多く、また言葉もそれほど通じなかったのではないか、公安のメガホンや、交差点に立っている巨大な拡声器からワンワン指示が飛ぶ割には、いっこうに状況は改善されない。彝族はどんどんこの交差点めがけて到着するらしく、前にいる人は押されて少しずつ前に出てしまう。それを公安が警棒を振り回して殴りつける。前に居るのはほとんどが女性か子どもだ。警棒を振りかざした公安が近づくだけで、彼らは立ち上がって逃げようとする。あちこちで悲鳴が上がり、さらに場は混乱する。公安はそれを抑えようと逃げ回る子どもと女性をまたひっ捕まえて殴る。

私はその時もカメラを持っていた。遠目にもよく目立つ、一眼レフだった。当時そんなものを持っているのは新聞記者か外国人だけだったから、私はその騒ぎに近づいて、公安にレンズを向けてやろうと思った。そうすれば彼らもひるむと思ったのだ。そして公安は私に手を出すことはないだろうという妙な自信も持っていた。
人ごみをかきわけて数歩前に出た時、シャヘイシェンマさんが驚くような力で私の腕を引き、私はまた人ごみの中に戻った。私は多分、もうカメラを手に持っていたのだと思う。彼女は私が何をしようとしているかを、何となくではあるが理解したのではないか。
私と彼女の間には、通じる言葉があったわけではない。彼女は自分の名前は漢字で書くことができたが、住所までは書けなかったし、彼女の話す言葉はあまりにも訛りが強すぎて、そして私の話す言葉もあまりにも訛りが強すぎて、お互いにまったく理解できなかった。だから彼女は何も言わずに、ただ私の腕をつかんだまま、私の目を見つめた。言葉を発せられない母親がわが子に何事かを諭そうとしているかのような必死さで、彼女は私を見つめ続けた。私は目を逸らし、カメラからも手を離し、「もうしない」と伝えるのが精一杯だった。

その場で、その公安1人が怯んで殴打する手を止めたからといって、問題は何一つ解決しない。状況は何一つとして変わらない。
私は用がすめばこの町を出て行く。自分が面子を傷つけた公安とは、その後一生会うこともない。しかし、ここに住んでいる彼らは違う。彼らはこの町を出て行くことができない。この状況から逃れることができない。この中で、この状況の下で、つまりは漢民族の支配の下で、生きていくしかない。それが彼らなのだった。それがシャヘイシェンマさんの人生なのだった。
彼女の諦観が、哀しかった。いや、誤解のないように書いておくと、彼女は決して卑屈になっていたのではない。むしろ毅然としてこの状況を受け入れ、そこで生きようとしていたのだと思う。通りすがりの外国人の一時の思いつきで、状況をさらに悪化させたくもなかったのかもしれない。あるいは、そのような一時のヒューマニズムなど要らない、という強い思い。
そして私は自分の思いの至らなさを恥じた。なぜと言って、彼女と私は同い年だったのだ。

後で招待所の人にシャヘイシェンマさんの書いた彝文字の住所を漢字にしてもらい、日本から写真を送ったが、おそらく届きはしなかっただろう。

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順番を前後させるが、布施から西昌へ戻る途中の山道とバス。道路が壊れて4時間ほど立ち往生、乗客もあちこちぶらぶら、の状況。


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前の写真から時間を逆戻りして、たいまつパレードの翌朝、布施の町の端っこ。私は小さな橋の上に立っているのだが、ここが町の一応の境界線のような感じだった。
いろいろなことが頭の中で渦を巻き、ほとんど眠れないままこの日の朝を迎えていた。この日は闘鶏や闘牛など、祭りの本番が行われる日だ。けれど私は、この朝、町を出るバスの切符を買いに行った。とても祭りを見物する気分にはなれなかったのだ。この日の祭りを見れば、私の感想もまた違ったものになったかもしれない、と今は思うし、せっかく行ったのにもったいなかったという思いもなくはない。けれど、その時の自分はそれを潔しとしなかった、それが全てで、それでいい。
バスは西昌から到着した車両が折り返すため、昼過ぎの発車だと聞かされた。午前中は時間があるので、ぶらぶらと人の少ないほうに歩いていくと、ここに出た。
どこにピントがきているのかもわからないような写真だが、私にとってはかなり思い入れのある写真で、布施編の最後に使いたかった。

何ということもなく橋に立ち、何ということもなく道の行く先を眺め、向こうから来る彝族を眺め、こちらから去る人を眺めていた。そしてこの写真を撮り、それからまたしばらくこの橋にいた。なぜだろうか、途中からひどく去りがたい気持ちが沸き起こり、踵を返すことができなくなった。
この時の私は、彝族の現状について深く憂いていたわけでもなく、ただ寝不足の真っ白な頭でそこに立っていたと思うのだが、不意にわけもなく泣きたくなった。旅先では決して泣いたりしない自分だが、この時はちょっと泣いた、かもしれない。
その時の気持ちを強いて、そしてまったく伝わるわけもないと理解しつつ言うならば、「この向こうなのだ」という思いだった。「この向こうに」、あるいは「この向こうが」。自分は永久に到達しない、「この向こう」。でも自分はそこを知っていて、ものすごく懐かしい。帰りたい。しかし帰れない……。
私はずいぶん旅をしてきたし、多くの町や村、そして自然の中に自分を立たせてきたけれど、このときと同じ気持ちになったことはその後二度とない。もちろんその前にもない。布施は私にとって忘れがたい町になった。だがきっと、自分は二度とこの町には行かないような気がする。なぜと問われたら困るけれど、そんな気がする。


最後いささか変な文章になってしまってすみません。これにて布施編はオワリです。
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by himalaya3 | 2008-01-19 14:33 | 四川省布施1991

中国雲南省カンランパ1989 (1)

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雲南省の最南端にあたる西双版納(シーサンパンナ)は、1989年当時はまだバスでしか行けない土地だった。昆明からバスでまる2日、時には3日。最後の山道を、上り坂になると自転車以下のスピードになってしまうオンボロバスがあえぎあえぎ上り、やっと下り始めたとき眼下に大きく蛇行するメコン川が見えた。あとはその川に向けてひたすら下り、たしか橋を渡ってこのあたりの都である景洪に着いた。
しかしどうやら、このときの景洪の写真は散逸したらしい(笑)。自宅に戻ったらまた探してみます。

当時はこの近辺で行ける村はごく限られていて、その中の一つにカンランパと呼ばれる村があった。この時はまだ道路がなく、船でしか行けなかったような記憶があるのだが、間違っているかもしれない。ともかく私は船で往復した。
船からの景色はだいたい冒頭に掲げた写真のとおり。時おりこういった藁葺き屋根の建物がぽつんぽつんと立っているのが見えるほかは、ただただ緑のジャングルの中を進んでいった。

b0033537_1653112.jpg鉄船のデッキに立つとこんな感じ。水面が思ったよりずっと高い。そして川は思ったよりずっと広い。


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岸辺に近寄って近寄って、人を降ろした直後。やれやれ、といったところだろうか。ここはこのように何となく着岸場という感じがあるが、もっと何もないところで、周囲に見渡すかぎり人家などなさそうなところで、ふと降りて行く人もいた。


b0033537_16581112.jpgカンランパに到着。岸に板を渡しかけ、その上を渡って降りる。かなり怖い。この写真でも緑の服を着た兵隊のような公安のような人が手を取ってあげているが、実際、上と下とで手助けをしてくれないと、落ちる人続出、だったかもしれない。


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左は上陸したところにある市場。岸辺から上へ向かって傾斜する階段道になっていた。この、写っているのは何族だろうか、ジノー族? 
右はミーシェン売りの人。タイ族と思われる。

b0033537_1741129.jpgがんもどき、もしくは揚げ豆腐売りの人。シーサンパンナは日本の食文化の一つのルーツとも言われ、大豆から作る製品は日本とよく似ていた。


b0033537_1753339.jpg左はごく不通の包子(パオズ)。中身は茶色い砂糖を煮溶かしたものだったと思う。そのことを「糖包」と言っていたと思うのだが、いまひとつ自信はない。右は沖縄のサーターアンダギーにも見える、揚げドーナツのようなもの。やはり甘かったが、あっさりしていた。


b0033537_178043.jpg雲南ではこればかり、と言っても過言ではないと思われる軽食のミーシェン。ミーは米の字、シェンは字が変換できない。米から作った生の麺をちゃっちゃっと鍋で茹でて、丼に入れ、スープをかけまわす。このスープが既に辛かったと記憶しているのだが、どうだったろう。土地の人はこの上にさらにどっさりと「ラアジャン」と呼ぶ唐辛子味噌のようなものを載せ、かき回すのだ。スープというような上品なものはないこともあった。ただ単に何かをかけて混ぜて食べる。当然、土地の人は「ラアジャン」である。
当時市場あたりで何かを食べるとなると、ほぼこのレベル。丼はそのへんに積み上げられており、箸は箸立てに無造作に突っ込まれている。その中からよさそうなのを選ぶのだが、いったい何を基準に・・・? まあ、比較的新しそうなものとかを選んでいたと思う。私はいつもミーシェンが手元に来るや否や箸を突っ込んで「気分的消毒」を行っていたが、おそらく、何の意味もなかっただろうと思われる。

当時のカンランパは、招待所が2つあっただけだったと記憶しているが、違うかもしれない。農業局の招待所に泊まったと思う。鉄製のベッドがそっけなく4つ並んだ部屋に、男女別に割り振られて泊まる。トイレや洗面所はまとめて1箇所にあり、不便と言えば不便だが、当時はどこに行ってもそんなものだったので、さして不満もなく泊まった。シャワーはあったが、当然のごとく水だった。そう、当時はそれが当たり前で、誰も不思議になど思わなかったのである。
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by himalaya3 | 2008-01-17 17:34 | 雲南省1989

たいまつ祭り初日・光当たらぬ側 四川省布施1991(3)

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前回の記事では意識的に「美しい」「着飾った」人々ばかりを載せた。今回はその逆の側、つまりは光の当たらない側にいた人々を載せてみたい。
この頃のここ涼山彝族自治州、布施周辺は「純粋彝区」と呼ばれていたらしい。たいまつ祭りのパンフレットにそう記されていた。町にはもちろん漢族も入り込んでいる。それは中国の少数民族エリアどこに行ってもそうであるように。
しかし、町の中を歩くにつれ、彝族の人々がはっきりと二つの階層に分かれていることを知った。片方は豪奢な衣装に身を包み、美しい白い布の日傘を差し、通りの真ん中を(これは穿った見方かもしれないが)闊歩している。もう片方は地味な紺一色の衣装を着て、通りの端に固まっている。
この階層が何によるものなのか、私には知る由もない。
かつて彝族は極めてはっきりとした奴隷制度を持っていたと伝え聞く。しかしそれは、たとえばチベットにしたところで一種の農奴制があり、それが中国がチベットを「解放」する大義名分の一つになったわけで、彝族の奴隷制度にしても、とりわけ「とてつもなくひどいものだった」と言えるものではなかったのかもしれない。現に奴隷とはいってもその中で身分の高い者は、何らかの手段によって自らを「解放」することもできたと聞く。
それはともかくとして、現在のこの違いは、かつてのそういった身分による住み分けなのか。
あるいは「解放」後の身分による住み分けなのか。
かつての「よい身分」は推測ではあるが「解放」時と文革の時に徹底的に弾圧されたはずだから、今またその旧時代の身分によってここまでの格差があると考えるのは、いささか不自然なような気もする。
ともかく、このあまりに歴然とした違いは、私に相当な違和感、あるいは嫌悪感に近いものを与えたことだけは間違いない。

b0033537_16341782.jpg暗い写真でよく見えなくて申し訳ない。精一杯に着飾った娘さんたち。


b0033537_17484493.jpgここはバス駅の中だったと思う。バス駅とはいえ、西昌との間を結ぶバスが1日に2往復しているだけだったかと。ほかの小さな町へ行くバスもあったのだろうか。
足踏みのミシンで服を縫っている。たぶん民族衣装だと思う。


b0033537_17475744.jpg近づいてくるパレードを一心不乱に見ている人々。右端の後方に写っている白いワイシャツの男性は、漢族だと思う。


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もうパレードは始まっているのだが、「俺たちにゃ関係ねえよ」とばかりにトランプ博打に興じる子どもたち。1人だけちょっといい服を着ている子も混じっている。いっちょまえに、お金を賭けていた。もちろん角の単位、ときには分玉を弾きあっていた。(角は元の1/10、分は元の1/100)


b0033537_1753477.jpg夕暮れが近づき、いよいよたいまつのご登場。ススキを束ねたようなものに火をつけて、通りをちょっと歩く。どんどん燃えてきてしまうので、ちょっと歩いたところでもう地面に投げ、大きな火にする。


b0033537_17544211.jpgすっかり日も落ちて暗い中、新たな草や木がくべられて、火が太っていく。メインストリートの何箇所かでこのように火が焚かれ、この後この火を囲んで踊りが始まった。
四川日報という腕章をつけたカメラマンが1人、写真を撮っていた。ほかに外から来た見物人は私のほかになく、音を立てて燃え上がる炎と、その周囲で踊る民族衣装の人々は、たしかに美しかった。私も首からカメラを下げていたのでその輪の中に入り込み、何枚か写真を撮らせてもらった。そうしていると「一緒に踊ろう」と言われ、しばらくその輪に混じってフォークダンスのような踊りを真似したりもした。着飾った子どもはかわいらしかったし、女性たちは文句なく美しかった。男性も腰から垂らした帯が夜目にも鮮やかで、彝族は美しい民族だなと思った。

しかし、一歩その踊りの輪から出たとき、私はそこに異様な気配を感じて思わず立ちすくんだ。すぐにその理由に気がついた。通りの両端には、踊りの輪に入ることなど考えもしないといった様子の圧倒的多数の彝族たちが、日中よりはるかに数をふくらめて、そこに存在しているのであった。その一群はある者は座り込み、ある者は立ったまま、ただ踊りの輪と立ち上がる炎とを凝視していた。
どの輪も、どの輪も、同じだった。炎を取り巻いて踊っているのは、パレードに参加していた着飾った人々であり、その周囲の光も当たらない、炎のかすかな明かりすら届かない場所には、やはり圧倒的に多くの彝族たちが、うずくまり、目ばかり光らせているのだった。

一体これは、誰のための祭りなのだろうか。
そして、彝族とは、誰なのだろうか。
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by himalaya3 | 2008-01-15 18:19 | 四川省布施1991

たいまつ祭り初日・光当たる側 四川省布施1991(2)

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正装した婦人 1991四川省布施

この日の夕方にたいまつパレードが行われ、三日間に及ぶ祭りが始まるというその日。町を歩くあまりにも美しい正装のご婦人がいたので、頼んで撮らせてもらった。

前回の記事の補足になるが、彝族はチベット族や納西族、そして羌族と先祖を同じくするチベット系の民族。自分たちの文字も持っており、中国では7番目に人口の多い民族とされている。
涼山イ族自治州は四川省の南部をすっぽり覆う大きな州で、北端を大渡河、南端を金沙江が流れる。この州の北部にある大涼山が、彝族の大拠点とされた。
また、1990年に西昌市と涼山彝族自治州が合併して新しい涼山彝族自治州が発足したらしいので、私が訪れた91年は合併後初、もしくは二度目のたいまつ祭りだったのだろう。


b0033537_17521064.jpgこちらも正装したご婦人たち。町のメインストリートを颯爽と歩む。


b0033537_1752284.jpg新聞紙を拾おうとしている少女は、紺地の鮮やかな刺繍のジャケット。黒地のジャケットも多く見かけたが、何による違いなのかはわからなかった。未婚・既婚などのはっきりしたルールがあるのか、それとも単に好きな色なのか。
スカートの色も違う。



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パレードが始まった。共産党の赤い旗と各種スローガンの横断幕を先頭に(それは写していない)。
着飾った男女が続々と通りを行進していく。最も着飾った人々の行進が終わった後は、州内の地名の入ったプラカードを掲げた、そこそこ着飾った各地区代表たちが行進した。
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by himalaya3 | 2008-01-08 18:06 | 四川省布施1991

初めてのカトマンズ・1988

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1988年9月・カトマンズの端、スワヤンブナートから見下ろすカトマンズの街

1988年の春から初夏にかけて中国を旅した後、いったん帰国して9月にネパールに旅立った。タイ航空機が降りたカトマンズ空港は、驚くほど小さな空港だった。今は国内線専用になっている建物が、国際線と共同だったと思う。ビザ申請窓口も建物の外の物置のような場所だったと記憶しているのだが、遠い記憶なので勝手に作り変えているかもしれない。
初めてだったので勝手がわからず、ちょうど何人かで話しながら用紙に記入していた日本人に申請書類をどこで貰ったのか聞いたのだが、薄笑いを浮かべるのみで教えてくれなかった。しょうがないので白人に聞き、何とか書類を貰って記入し、なんてぼやぼやしているうちに誰もいなくなり、ようやく空港の外に出たもののそこにはいるべきバスもタクシーもなく、途方に暮れた。中国で多少旅に慣れたとはいうものの、今度は共産圏ではないまったく別の国。人々の顔も彫りが深すぎて怖く、私はまさしく迷子の子どものようにそこに突っ立っていたと思う。
そんな私を救ってくれたのが、ご存知の方もいるのではないか、日本語を話すビケさん。小柄で斜視で、と聞けば「ああ」と思い出す方もあるかもしれない。私は彼に拾われてカトマンズ・ゲストハウスに連れて行ってもらい、何とか部屋を確保することができた。

実はその日、私は外に出るのが怖くて、ずっと部屋に隠れていた。タメルの端からカトマンズゲストハウスへ歩いただけで、私はすっかりびびってしまったのだ。通り一杯に彫りの深い顔があふれていることにも、怪しげな風体の白人が大勢いることにも。中国とはずいぶん違い、間違った場所に来てしまったと、かなり後悔もした。同胞に無視されたというのも、痛手だったか。中国では、旅行者はみな団結して中国そのものと闘うという感じがあったのだが、ここではおいそれと人に物を尋ねてはいけないのだな、などと思ったりもした。
夕方になってビケさんが連れ出しに来てくれ、ダーバースクエア、アッサントーレなどを駆け足で回り、最後に王宮通りの「古都」でカツ丼を奢ってくれた(自分で払ったかな?)。わけがわからないまま、いい人だと思った。
ずっと後になって、ビケさんは私に向かい「私の愛人になりなさい」とぶちかまして私を怒らせるのだが、そのことは忘れてあげてもいいくらい、彼には世話になった、感謝している。もちろん、彼が途中から相当の下心を持って私に接していただろうとも理解した上で。それでもやっぱり、世話になったことには変わりがないのだ。
今もビケさんは空港にいつもいる。ついこの間も会ってきた。彼は私を見つけると必ずハグをしようとする。一応恩人なので、私も受けて立つ。ビケさんも年を取り、昔の羽振りのよさはかけらも見られなくなった。彼は生きている限り空港に行きつづけるんだろうなと思う。

私は本当に今でも、あの日の心細さを忘れない。自分の本質は、あれだと思う。
だから今もデリーやカトマンズなどに降り立つ時には、1人で呆然としている人がいないか気にかけるようにしている。新参者が右往左往するのを尻目にさっさと動くことが快感だ、と言う人はともかくとして、ちょっと温かい目を持って見守っていただけたら、と思う。そういうの、駄目かな。旅人は自己責任かな。

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カトマンズの中心、ダルバール・スクエア。今もここはあまり変わっていないと思う。ただ、こんなに赤茶けていたかなぁ、とは思う。写真のせいかもしれない。この広場でチベッタンが露店を開いて、アクセサリーや怪しげな仏像などを売っている。このすぐ横手にあるのが昔からのツーリスト街、フリーク・ストリート。ジョッチェンとも呼ぶ。この当時、既にさびれかけていたような記憶があるが、実際はどうだっただろうか。

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仏教とヒンドゥー教が融合したかのような階段道が面白い、スワヤンブナート寺院。階段の両脇には、ヒンドゥーの神々が奉られていたと思う。
タメルからだと歩いても行くことができる。割と気持ちのいい散歩道。橋を渡って、のどかな田園風景の中を歩いて行った。小一時間だったか、もう少しかかったか、記憶は曖昧。

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スワヤンブナートのお寺の中。ヒンドゥーっぽい。というか完全にヒンドゥーだと思う。
とすると別に仏教の寺というか建物があったのか、あるいはこのストゥーパそのものが仏教なのだから、それでいいという感じなのかもしれない。

それにしても、こんな風に出遭ったカトマンズに、その後十数回も足を運ぶことになろうとは、本当に不思議だと自分でも思う。
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by himalaya3 | 2008-01-05 19:45 | ネパール1988

チョ・オユーとエベレストの瘤

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抜けるような青空、続く。
早朝のチョ・オユー。
私が立っている湖畔のゴーキョ村に日が射しはじめるのは、まだずっと先のことだ。
これも美しい、ほんとうに美しい山だと思う。姿がやさしい。たおやかな峰という表現がぴったりあてはまる。
標高8201m、世界第六位の高峰。しかし、この姿からなんとなく想像がつくように、比較的登りやすく、安全度の高い山らしい。初登は1954年、94年には山野井泰史氏が南西壁の単独初登頂という記録を立てている。

**一つ前のエベレストの写真に、コメントをいただきました。「カラ・パタールから見たときには山に見えているものが、実はエベレスト南西稜の瘤にすぎないことがよくわかる」というもの。多分、多くの方には「何のことだか・・・?」状態だと思うので、比較できる写真を載せてみます。**

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1990年11月 カラ・パタール頂上から撮影

これがカラ・パタールから見上げる風景。中央奥に見える黒い三角がエベレスト。右手の大きな山はヌプツェ。ヌプツェの稜線がエベレストの下を大きく左に薙いでいる。
そしてエベレストの左下に大きく見えている白い山(ロゴを入れておきました)。確かにここから見ると、エベレストの手前にある別の山に見える。もしここからエベレストに登るなら、この手前の山を登って向こう側に乗り越えて、あらためてエベレストそのものに取り付くのでは、と思わせる。

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2006年11月 レンジョ・ラから撮影

こちらの写真では、エベレストの左に山などはなく、ただ稜線が切れ落ちてきて、そこに1つ瘤があるのが見えるかと思う。この瘤が、カラ・パタールからは手前の山に見えるわけだ。
何となく、カラパタールがどのあたりかということも、想像がつくかと思う。私も何となくだが、多分このへん、というのはわかった(笑)。

教えていただいた没関系さんに感謝です! 言われて「あー、なるほどー」と思いました(笑)。ありがとうございました。

※ヌプツェとローツェを取り違えてました。訂正済み。すいません! 
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by himalaya3 | 2008-01-04 16:08 | ゴーキョピーク2006

抜けるような・・・

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抜けるような青空が見たくなったので、本日はこの写真。
2006年11月に訪れた、ネパール・エベレスト街道のサブルート、レンジョ・ラからのエベレストとローツェ、ヌプツェ、右端にマカルー。
ちょっと端っこが切れて見える方、サイドバーを隠したりすると見えるかも。写真の大きさがまだ把握しきれていなくてごめんなさい。

エベレスト街道のメインルートは、エベレスト直下のカラ・パタール5545mを目指す道である。多くのトレッカーが、おそらく人生に1度きりのヒマラヤとなれば、ここを目指す。目指すべき、と私も薦める。
直下からの世界最高峰の大迫力は、他のどこでも味わえないものだし、もし周囲が静かであれば、人はそこで深く深く内省するはずだ。自分はどこから来てどこへ行くのか、自分はどうしてこの世に生まれ、なぜ生きていくのか。そんな青臭い、日常の中では固く封印している思いが、そこでは解き放たれて噴出する。明け方の、ほかに誰もいないカラ・パタール。人生に一度、万難を排しても行くべき場所だと、私は勝手に思い込んでいる。

エベレスト街道のもう一本の道は、ゴーキョ・ピークへと続く。ゴーキョ・ピークは5360mとカラ・パタールより若干低い。また、エベレストの直下ではなく、間に1つ稜線とモレーンを挟むため、距離的にはかなり遠い印象がある。このためゴーキョはメインルートではなく、サブ・ルートとして扱われることが多い。言って見れば、通好みの山、という感じか。
しかしゴーキョ・ピークは360度の展望が開けるいい丘だ。麓にある湖も深い藍色をして美しい。二度目のエベレスト街道、または時間があるのでカラ・パタールと組み合わせて、という方には自信を持ってお勧めする。

レンジョ・ラは、ゴーキョの西にあり、標高は5340m。通常はゴーキョへのトレッキングでここを通ることは稀かと思う。ゴーキョ側からだと峠を越えてから次の村までが長く、安全第一に考えればツアーなどでこのルートを選ばないのもうなづける。また逆からだと、短期間に急激に高度を上げ続け、長い長い登りの果てにこの標高の峠を登るわけで、これまた困難だ。
しかし、いい峠である。ゴーキョ村を出発してから湖沿いにずっと登っていく風景も素晴らしいし、1つ乗っ越してからは湖の上にエベレストとローツェがずっと聳えていてくれる。いつ振り返っても世界最高峰。これはなかなか、他ではないのではないか。
最後の上りは非常に急だが、ゴーキョ・ピークに登った後であれば高所順応もできており、多分それほど困難ではなく登れる。むしろ危険なのは着雪だろう。たまたま2006年秋は雪が少なく、アイゼンなしでギリギリ切り抜けることができたが、この峠を越えるなら、簡易でいいからアイゼンはあったほうが安心だと思う。


というようなことをくだくだと述べた後に唐突ではありますが、

あけましておめでとうございます。
よろしかったら今年も時々お付き合いくださいませ。
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by himalaya3 | 2008-01-01 15:55 | ゴーキョピーク2006