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河口・ベトナム国境の街と中国総括

金平を12時20分発の蒙自行きバスで離れた。マーケットは午前中よりも賑やかで、ちょっと後悔。次にくることがもしあったなら、その時はマーケットの夜も泊まろうと思う。
来た道を忠実になぞりながらバスはひた走る。3時ちょっと過ぎに蛮托の橋のトイレで休憩。運転手に「河口に行くのだけど・・・」と話すと「おう、橋の向こう側で降ろしてやるよ」と気さくに言ってくれた。「ここで降りてあとは歩いて橋渡れ」と言われるかもと思っていたので、よかった。ここまで17元。

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蛮托でバスから降りたところ。写真中央奥へ橋を渡り、右へ折れて、手前と奥の山の間へ入り込んでいくような形で、金平方向である。橋のこちら側、向かっていく方向が昆明方向、河口は後ろだ。
小さな軽バンのような車が数台客待ちをしていた。「35元でいいよ」と言ってきた男がいたが、やめておく。この手の車で長距離を走ると、途中で「もう行かない」とやられることがあるからだ(経験あり)。
乗ってきたバスの運転手は「3時半にバスが来るから、それに乗れよ、うまくやれよー!」と言ってくれていたのだが、それより早くミニバスが走ってきた。手を振って停める。降りる人もいた。河口まで40元、ちょっと高いけど交渉の余地はなさそうだ。おとなしく乗る。

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これが乗ったミニバス。助手席にイ族の女性が乗っていて、その子どもがエンジンルームの上でずっと爆睡していた。
実はこの蛮托、見上げると山の中腹を高速道路が走っている。まだ工事中らしく、昆明から蛮托へくる途中、何度も工事している現場を通った。蛮托を出たバスは、すぐに高速道路の真下に入る。右手には広い川。川岸に一般道路、斜面の上に高速道路、だ。斜面が切り立っていて川との距離がほとんどないので、バスは常に高速の真下を走る感じになる。
そしてこの道が・・・・・・。
とんでもない悪路だった。もはやこれは道路ではない、ただの、何だろう、ただの荒れた地面だ。工事用車両が無数に通り、荒らしまくった跡のなれの果てだ。暑いのに窓を閉め切らないと土ぼこりが容赦ない。窓を閉めたって入ってくるのだ。車内はもうもうと土ぼこりに満ち、4つのタイヤがそれぞれ別々の高度に乗っている状態を維持しながら、無理やり前進する。揺れる、などという次元ではない。はるか昔、西チベットでヒッチしたトラックの荷台と似ている。ほぼ同じか。あの時は揺れるたびにぽんぽんと宙に飛ばされて死ぬ思いをしたから、それよりはましだが。
延々と続く悪路。この道を寝台バスも通るのだろうか。アンビリーバブルだ。
やがて新街という小さな集落を通過したところで、わーお、バスは高速道路に乗った! このまま河口まで突っ走るのか、イェイ!
と思っていたら、南塀というところで降りてしまった。がっかりだ。
しかしここからの下道は、最初のあれよりははるかにマシで耐えられた。河口到着5時40分。蛮托から2時間20分だった。

b0033537_1794318.jpg元陽から河口へのバスに途中から乗った。これがそのバス。


b0033537_1829999.jpg現在の中国側出国地点。立派だ。

b0033537_1711246.jpg手前が現在の国境橋。奥に見えているのが、昔の国境橋、たしか線路もある橋だ。私がこの橋をベトナムから中国へと渡ったのは1995年の6月、もしくは7月初めだった。その時は列車でハノイからラオカイへ、国境まではバイクタクシーの後ろに乗り、この橋を渡って中国に入り、その夜に出る寝台列車で昆明に向かった。
今はもう、昆明~河口間の鉄道も廃止されてしまい、ここを国際列車が通過することは永久にないのだろう。


b0033537_17135673.jpg夕方の国境。もう通過時間は過ぎていたと思う。

b0033537_17141070.jpg中国の出国審査ビル。夕方の写真。


b0033537_1715946.jpg中国側の入出国ゲートのまん前の交差点。看板にベトナム語が混じっている。
b0033537_1715236.jpg右はすこし町中に入った路地のファストフードの看板。四川風味のぶっかけ飯が7元。


b0033537_1717957.jpg町で最先端をいっていると思われる一角。ぱっと見た感じ、非常に都会的である。若者が好みそうなジーンズやシャツなどを売っていた。


河口にはたくさんのホテルがある。国境ゲート近くにはいわゆる旅社・招待所クラスもたくさんあるし、バス駅の周辺には高級ホテルも軒を連ねている。中国最後の一夜、バス駅近くの賓館がキャンペーン中で、通常150元のシングル部屋に70元で泊まれると言われたので、ここに決める。いわゆるちゃんとしたホテルだ。床はカーペットだし、ベッドのほかに小さいテーブルと椅子もある。日本のビジネスよりちょっと上、という感じだった。熱いお湯も豊富に出てうれしかった。
最後の食事は路地にテーブルを出していた小さな小さな食堂で。積んである野菜の中から選んで、トマト卵スープとご飯、それにきゅうりと肉の炒め物を作ってもらう。小学生の女の子が美しい普通語を話し、帰るときには親に促されて「サンキュー、グッドナイト!」と英語で挨拶してくれた。

b0033537_17195849.jpg朝、国境に向かっていると大量のミカンを積み上げた場所があった。これからベトナムへ輸出されていくのだろうか。それとも逆なのか。経済力としては中国のほうが上だろうから、物はベトナムから中国へ流れそうな気もするが、高くてもいいものがほしければその逆もありなのだろうな。


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朝早く、まだ8時の国境であるが、すでにベトナムから帰国したと思われる中国人団体がわんさか入国の列に並んでいた。おそらく、ハノイからの夜行列車で着いてそのまま国境を越えてきたのだろう。



さてさて。
今回の中国は、2000年に四川~甘粛~青海~チベットと旅して以来、8年ちょっとぶりの訪問だった。あ、去年2日だけラオスからモンラーに入国して帰ったのはあるが、これは省略していいだろう。
その間に中国の経済は大躍進を遂げた。かつては捏造数字大国であったが、今では国内的にはともかくとして、世界もその力を認めざるをえない、ほんものの大躍進を遂げたのだ。昨年は北京オリンピックもあり、様々な問題がありながらも、一応は成功させた。大きな地震に見舞われたが、それも何とか国の力で回復させつつあるようだ。
今回、雲南から広西、貴州、また雲南と旅をした。昆明と桂林、凱里を除いては大きな町は訪ねず、あまり外国人も訪れない、見るべきものもさしてないエリアを動いた。いや、見るべきものはあるのだろうが、外国人が好むものとはちょっと違うというか。例えば同じ雲南でも大理や麗江に向かうルートとは、ツーリストの数は100倍あるいはもっと、開きがあるのではないかと思えてしまう。
そんな、言わば改革開放に乗り遅れた感の強いエリアを旅したのだが、ひとことで言えば、中国、見てくれは少し変わったけれど、なんも変わってない! という感想を持った。町並みは少しずつ変わっている。走るバスも変化した。昔ほどひどいバスはもう走っていないし、数もうんと増えてようやく需要に見合う供給に近づきつつあるのではないか、それを証拠にバス駅でも列車駅でも、かつてのような無法な振る舞いはあまり見かけなくなった。
それでも、「厳禁吸煙」と大書されたバスの中で、運転手筆頭に男は全員、煙草を吸う。相変わらず痰をそこいら中にまき散らす(ただし都会では若干その比率が下がった)。相変わらずゴミは自分の手元から去ればいいだけなので、車内でも駅でも足元はゴミ溜めである。便器以外の場所で用を足すのも相変わらず、子どもは道路でもどこででも小も大もするのも相変わらず。大声でわめき散らし、隙を見せれば何人もがハイエナのように群がって来、マナーだ道徳だなんていうものは端から持ち合わせておらず、傍若無人で我儘勝手。
そうなのだ、つまり、何一つ変わっちゃいないのである。
それなのに、物価だけは高騰した。
供給が増えた、その一点で旅は昔よりはしやすくなったと思う。だけど、それだけなのだ。登場してくる中国人たちは、まるで変わらない。昔、『粗にして野だが卑ではない』という本があったが、それに倣えば、祖にして野にして卑、なのである(それなのに物価は高いのだ・笑)。

昔、そう、20年前であったなら、粗にして野にして卑な人民たちであっても、どこかで「それもしょうがないな」と思わせるものがあった。国全体が、そうでなければ生きられないのだと私をして納得させるほどに、モノはなくカネもなく・・・、だったからだし、貧しさの共有、みんな同じようなもん、といった空気が社会にあって、それゆえに人は今よりは大らかだったと思う。粗で野で卑だけど、だけどだけどだけど! という何かがあった、それを言葉で説明するのはすごく難しいのだが、あれは何だったのだろう、そう、つまり、あの頃の中国は、社会主義国だったのだ。まぎれもなく。だから許容できた、納得するしかない、と思えたのか。どうしようもない、誰にも動かしようのない壁があって、それがつまり国の体制というもので、その壁の手前で私も人民たちも同じように日々うごめき、怒り、無駄に手足を振り回していた、のだ。その意味では、どこかで彼らに対する「一緒だもんな」という意識を、持ちえていたのかもしれない。もちろん当時だって中国ではいつもいつも怒っていたのだけれど。
今の中国は社会主義国ではない。ニセモノの社会主義というか、新社会主義、一党支配だけど資本主義、という矛盾した体制。社会の末端はまるっきり、剥き出しの資本主義である。変わっていい、変わることがもう許されている、現に上海や北京はどんどん変わっていく、それなのに、「どうしてアンタたちはダメなんだよ、変われないんだよ!」という歯がゆさや、直裁に言えば怒りみたいなもんがある。どうしてだよ、どうしてだよ! と思ってしまうのだ。あるいはその変化というものが、あくまで金集めに狂奔しとりあえず集めた金でマンションを買い車を買い服を買い、豪奢に暮らすという方向には向かうのだが、文化や教養といったもの、公共道徳やマナーといったもの、これに関してはあまり目立つ変化がない、ということへの苛立ちなのかもしれない。
もう、金輪際、この国には足を踏み入れたくないと、何度思ったことか。何をそんなに怒っていたのか、幻滅していたのか、旅から数ヶ月過ぎるともうよくわからないのだが、それでも何度もそう思ったことだけは確かだ。もう、うんざりだった。見なくてもいい景色なら、見ずにすませたい。わざわざ汚いものを見に行って、疲れ果てるなんてばかげている。それにもう、自分が見たいものはこの国にはないのかもしれない。もういい、もう中国はいい。もう十分旅した。
致命的なトラブルというのは思いつかない。そんなものはこの旅にはなかった。だけど小さなこと、毎日毎日この国で生きている限り目にするありとあるものが、自分には許容できず、それがボディブローのように効いてしまった、のだろうと思う。
いつかこの国の人間の9割が、「公共の場で痰を吐くのはよくないことだ」と思い、また、「人前で鼻の穴に指を突っ込むのは恥ずかしい」と思い、「トイレでは便器で用を足して流さなきゃね」と思うようになる日が来たら、そのときには行ってやってもいい。来てくれなんて言われてもいないのにえらい暴言だが、中国にいるときの私の本心といったら、まぁ、こんなようなものだった。

国境を渡ったら、いま持っている中国元は全部ベトナム・ドンに変えてやる! なぜなら、私はもう二度と、中国には来ないのだから。元なんて用はないのだから。河口のホテルで、国境を流れる川を眺めながら、私はそう固く決意した。長きに渡って彷徨った中国だが、もうお別れだ。それでいいだろう? と自分に聞くと、自分は何の迷いも見せずに「イエス!」と答えた。

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橋の向こうはベトナム、ラオカイだ。
いざ行かん、14年ぶりのベトナムへ。さらば中国、二度と来ねぇぞ!


※中国、中国の人に対するひどい言葉の数々、ごめんなさい。何もかも、わたくしという人間の懐の浅さであり、器の小ささがもたらす拒絶反応であります。嫌なら行くな、その言葉の通りであります。反省します。
中国、これほどまでに大っ嫌いでありながら、その反面、どうしようもなく好きな国は、私にはほかにありません。
どうかお目こぼしをお願いいたします・・・・・・。
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by himalaya3 | 2009-05-28 18:41 | 2009ラオ・中国・ベトナム

金平・少数民族のバザール

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この紅い頭巾の人びとに会いたくて、2年越しで到着した金平。これは定期市でない日の市場の奥。おばあさんが孫を連れて買い物していた。

去年もここ金平へ行こうとして、市のスケジュールも完璧に調べてラオスから中国に入ったのだが、いろいろとあってたどり着かなかった。その時は、国境沿いにバスで最短距離を行こうとしたのが、おそらく失敗だったのだろうと思う。いや、普通の旅人ならオーケーだろうと思う。たまたま腰が悪い自分が無理な長距離移動を試みたからダメだったのだ。

今年は昆明から金平への直通バスを使うことになった。途中の元陽あたりも寄りたい場所ではあったが、残念ながら市のスケジュールが私の日程とはまったく合わず、それなら一気に金平まで入ってしまおうという気になった。この時点ですこし風邪を引きかけており、腰にも疲れがたまっていた。
昆明のバス駅はいくつもあり、そのどこででも金平行きがあるのかどうか、調べていないのでわからない。私が乗ったのは、昆明駅から北、昆湖飯店方向へすこし歩いた左側にあるバス駅だ。因みに昆湖飯店は昔のドミはなくなり、80元のトイレなし部屋があった。
このバス駅からの金平行きは一日三本。窓口で「一番いいバス」と聞くと、朝10時に出るバスだという。残り2本は寝台バスだ。服務員を信じて昼間のバスに乗ることにした。

昆明から石林までは高速道路で信じられないくらい快適な道。しかし石林からは一般道しかなく、片側1車線のごく普通の国道を進む。驚いたことに、広州から昆明へのバスはこのルートを来るらしく、何十台もすれ違った。途中の弥勒は巨大マンション郡の建設工事に驚き、開遠は町のあまりの巨大ぶりに目を見張った。ここで運転手交代。呆れるほどに喋り捲る運転手だったのでほっとした。アジアは「喋る運転手」に悩まされることが多いが、それにしてもこんなにパワー全開でまるで芸人のように喋り倒した運転手は他にいない。
この開遠から箇旧のあたりは標高が低いのか非常に暑く、道端でもさとうきび、みかん、びわ、バナナ、パイナップルを売る露店が目立った。
元陽への道を右手に見送り、道路の行く先表示は「河口」一つに絞られる。時折ひどく悪くなる道路を、ともかくひたすらに南下していく。大きな谷の左岸をひたすら下っていく。
やがて蛮托という小さな集落に着き、ここで直進する河口への道と分かれ、今まで下ってきた谷を対岸に渡る。渡ったところで二度目の休憩、午後4時40分。

対岸を引き返しながら進み、やがて支流に入っていく。ここからがとんでもない山道の連続。ひたすら沢を詰めては渡って引き返すことの繰り返し。吐いてる人多数。
うんざりするくらい時間がかかる。ひたすら登っていく。寒くなってくる。やがて山を乗り越したあたりが阿得博、大賽という場所もあった。農業は~に学べ、という標語を思い出した。ここではないが。
しばらく行くと、水牛を追っている紅頭ヤオ族を見かけた。初めて見た。
さらに行くと、毛皮のようなものを背負った人々を見た。原始人だ。
さらに行くと、集落の片隅で集まって刺繍をしている紅頭ヤオ族を見た。売ってくれ!
夕陽はとっくに山に沈み、あたりは暗くなってきた。道はバスがすれ違うわけにはいかないほどの狭い山道。トイレ休憩からこちら、通過するのは小さな集落ばかり。この先に本当に金平などという町があるのだろうか? と不安になってくる。あるにはあっても、宿もない、今通過しつつあるような小さな集落だったらどうしたらいいのだろう。宿があるという情報はどこかで見たような気がするし、そもそもバスが日に3台も行く町なのだと思ってはみても、それにしても山道が寂しすぎる。この先に大きな町があるなどとは、とても思えない。
そして、バスはあえぎながら最後の峠を越えた。あとは下っていくらしい。と、遠くに大きな町が見えてきた。金平、こんなあほみたいな山道の先に、なぜこんな町があるのか。
金平バス駅着、午後7時ジャスト。もう暗い。昆明から9時間かかった。
バス駅付属の宿に泊まることにする。1泊50元のところ交渉して35元にしてもらう。夕飯は駅の広場に出ていたミーシェン屋で。1杯7元だった。

翌日、バス駅の服務員に市の情報をいろいろ教えてもらった。「ときどきカメラを持った日本人が来るわ」と言っていた。「ふーん」と答えると、「祖先の写真を撮りに来るのよね」と言う。「え?」と聞き返すと、向こうが驚いたように、「え、知らないの? あなたたちの祖先はハニ族なんでしょ、だからここまで来るんでしょ?」とのこと。うーん、そういう話を聞いたことがあるようなないような・・・。照葉樹林帯がどうたらこうたら・・・。忘れたなぁ、なんもかんも。
それはともかく、この時期はもう農作業が始まっているので、朝行かないとだめよ、とのことだった。

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普通の日の町の中。左は市内循環バス駅近くのさとうきび露店。いつも賑わっていた。右は私が泊まったバス駅から市の開かれる場所に向かってゆるゆると登っていく道の様子。町は斜面に広がっており、どこからどこまでなのか、よくわからなかった。


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左は別のバス駅。金平には私が知るだけで2つのバス駅があった。どちらもちゃんとしたバス駅で、昆明行きもどちらからもバンバン出ている。
右はバス駅ホテルから撮った裏側の様子。マンションやらいろいろ建設中。マンションは、窓も何もないがらんの状態で購入し、それから窓とか鉄格子とかつけるらしい。まるで建設途中で放り出されているかに見えるこの右手のマンションも、ちゃんと住んでいる人がいるから不思議だった。

市は6日に一度。
この日を逃すと残念だが、近くでは毎日どこかで市が開かれている。スケジュールはバス駅や宿の人に聞けばわかるはず。私の場合は2日待って金平一つに絞った。腰が悪いので・・・。
さて、いよいよ市の日だ。朝から賑わっている・・・、と言いたいところだが、朝はそれほどでもなかった。それでも8時過ぎるとだんだん人が増えてきて、金中農貿市場は賑やかになってきた。カゴを背負ったハニやヤオの人もたくさん歩いている。楽しい。

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生きたニワトリを売っている。中国では当たり前の光景だ。
右は市の日の市場で、最初に撮らせてもらった紅頭ヤオ族の人。野菜を売っていた。1束1元。後で娘さんに聞くと、おん年90歳だそうだ。


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左はハニ族の人たち。藍染めの布を売っていた。自分たちの服や帽子にするための布だろう。多くのハニの人びとが物色していた。私も布を1巻買い、撮らせてもらった。藍染めのようだが、藍色ではなく、茶が強く出ている。ばいせんによる色なのか、それとも・・・? あるいは藍ではなく、はじめから茶に染めるためにまったく別の染料を使っているのかもしれない。このあたりはハニの人びとと言葉が通じずよくわからなかった。
右は糸を売っている店。木綿のかせを売っている。これを織って布にするのだ。大勢のハニ、ヤオの人びとがここでも品定めに夢中だった。


b0033537_16331276.jpgうぉお、この人たちに会いにはるばるやって来たのだよ。紅頭ヤオ族、近年お会いした中国の少数民族の中では、並外れて美しく着飾る人びとだ。


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我慢できず、布をまた1反買って写真を撮らせてもらった。スキンヘッドにかぶる紅い頭巾も売っていて、やり方も教わったが、とても複雑だった。この女性の頭巾の中には、ちゃーんと芯が入っている。


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照れるオバチャン(などと言いつつ私より年下だと思われ)にくるっと回ってもらった。それにしても美しい。刺繍は残念ながらだいぶ粗くなってきているが・・・。


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毛皮を背負った原始の人、いえ、ハニ族の方発見! 後ろから失礼して写させてもらう。
右は別の場所で撮ったこちらも毛皮を背負うハニの方。豚を囲んで何人かで談笑中だった。


b0033537_16404921.jpgこれは苗族だろう。さとうきびを品定めしていた。



たくさんの布を見せてもらい、刺繍した衣服なども見られてとても楽しかった。でも中国は、物価が上がりすぎた。たとえば刺繍したズボンが300元と言われると、4500円強なのである。いや、金額が高いのではない。金額に見合う品質ではない、ということが言いたいだけだ。
非常に残念なことなのだが、少数民族の人びともそれなりに飾ってはいるのだけれど、昔のような手の込んだ装飾ができているわけではない。昔であれば、手織りの木綿に絹または綿の色糸で細かな刺繍をしていたのだろう。けれど今は、化繊のクロスステッチ用の粗いガサガサした布に、蛍光色の毛糸で刺繍してしまう。出来上がるものは遠目にはとても綺麗で魅かれるのだけれど、近くで見ると「うーん」と思わざるを得ない、粗くて稚拙なものになってしまう。
苗族にいたっては、刺繍ではなく、刺繍柄のプリントのスカートでもう満足しているようだ。

人のことを言えた義理ではない、というのはもちろん、重々承知の上である。私たち日本人も、きものを捨てた。せめて何とかしてきものを着てもらおうと、二部式を編み出してみたり、汚れても大丈夫な化繊のものを作ってみたり、手縫いをやめてミシンに切り替えたり、様々な工夫を凝らしている。自分の衣服のために、それほどの手間隙をかけられる時代ではない。
それと同じことが中国の辺境でも起きている。もう刺繍や装飾に昔ほどの時間も情熱もかけられない。仕事も忙しいだろう。今の中国では、お金がないのは死んでいることと同じだ、とよく聞いた。男も女も現金を手に入れることに忙しい。刺繍なんて、たしかに、してはいられないだろうな・・・・・・。
そういえば、くる途中の山道で、民族衣装のまま急斜面を伐採した無理やりの畑にしがみつくようにして、苗木(形から考えておそらくパパイヤだろうと思う)を植えている少数民族をたくさん見かけた。ある場所ではそれはハニ族であったし、ヤオ族もタイ族もミャオ族もいた。
それでも、形を少々変えても、まだこの民族衣装を守っているのはすごいことなのかもしれない。

満足した部分と、何か足りないと思う気持ちと、両方を抱えて金平を後にした。
バス駅からは市場を通ってから町を出て行くことになる。私が立ち去ってから1時間ほど経った車窓から見下ろす市場は、さっきよりも格段に賑やかになっているように見えた。うわっ、残念。と思いながら、いや、残念だまた来たいと思うから旅は続くのだと思ったり。そうして来たときと同じ山道を、ずんずん進んでいった。


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by himalaya3 | 2009-05-07 17:09 | 2009ラオ・中国・ベトナム